ワイン・ヴィンテージ解説「1955」~ 世界的に恵まれた年

ワインは毎年、秋が来れば仕込まれる。偉大と称されるワインは皆、ブドウが摘まれ、酵母の力で酒に変わった年――ヴィンテージをラベルに記している(シャンパーニュなどで一部例外はあるが)。好天続きで、労せずして優品が量産されたような年もあれば、雨、霜、雹、熱波といった天候イベントによって、造り手が唇を噛んだ年もある。ただ、どれひとつとして同じ年はなく、優れたワインはどこの地域の産であれ、ヴィンテージの個性が刻印されている。

本連載では、第二次世界大戦が終わった年から現在に至るまでのヴィンテージを、世相や文化とともに、ひとつずつ解説していく。ワイン産地の解説としては、フランスの二大銘醸地であるボルドー、ブルゴーニュを中心とするが、折にふれて他国、他産地の状況も紹介していく。

本記事では、1955年を取上げよう。多少の濃淡はあれど、世界的に高品質のワインが生産された、恵まれた年である。

本記事は、ワインスクール「アカデミー・デュ・ヴァン」が監修しています。ワインを通じて人生が豊かになるよう、ワインのコラムをお届けしています。メールマガジン登録で最新の有料記事が無料で閲覧できます。


【目次】
1. 1955年はどんな年だったか?
 1-1. 世界の出来事
 1-2. 日本の出来事
 1-3. カルチャー(本、映画など)
2. 1955年にはどんなワインが造られたか?
 2-1. ボルドーワインの1955年ヴィンテージ
 2-2. ブルゴーニュワインの1955年ヴィンテージ
 2-3. その他の産地
 2-4. 伝説のワインは生まれたか
3. 1955年ヴィンテージのまとめ


1. 1955年はどんな年だったか?

1-1. 世界の出来事

20 世紀の歴史において1955年は、極めて重要な「構造化」の年として位置づけられる。第二次世界大戦後の流動的だった欧州情勢が、冷戦という二極対立の中で完全に固められたのだ。

欧州での重大な出来事から見ていこう。まず、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)にとって、1955年は「建国」に匹敵する主権回復の年となった。5月5日、ボン・パリ協定が発効し、米英仏による占領体制が公式に終了、西ドイツは主権国家としての地位を回復したのだ。この日をもって、「軍事強国」ドイツの再軍備が認められた。続いて5月6日には、北大西洋条約機構(NATO)への加盟も実現している。しかしながら、ナチスの記憶がまだ生々しい中での再軍備は、西ドイツ国内で大きなハレーションを生んだ。

ボン・パリ協定について連邦議会で演説する西ドイツ首相コンラート・アデナウアー(1955年2月25日)

ボン・パリ協定について連邦議会で演説する西ドイツ首相コンラート・アデナウアー(1955年2月25日)©Bundesarchiv

もちろん、西ドイツ再軍備のハレーションは国内に留まらない。西独のNATO加盟から10日も経たない5月14日、ソ連と東欧7カ国(アルバニア、ブルガリア、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア)は、NATOに対抗するワルシャワ条約機構を結成した。これにより、欧州の鉄のカーテンは軍事同盟の境界線として不可逆的に固定され、欧州大陸は東西両陣営の最前線として分断されたのである。

ドイツの隣国オーストリアは、氷の矢が東西に飛びかう中で、特異な道を歩む。5月15日、ウィーンのベルヴェデーレ宮殿において、米英仏ソの4大国とオーストリア政府との間でオーストリア国家条約が調印された。この日をもって、オーストリアも主権を回復し、占領軍の撤退と引き換えに「永世中立」を宣言した。ドイツとは異なり分断を回避したオーストリアは、こののち東西の緩衝地帯として独自の国際的地位を確立していく。条約調印日は現在、同国の建国記念日になった。

オーストリア国家条約 - 4人の連合国外務大臣とオーストリア外務大臣の署名

オーストリア国家条約 – 4人の連合国外務大臣とオーストリア外務大臣の署名

フランスでは、植民地アルジェリアで前年11月に始まった独立戦争(アルジェリア戦争)が、「治安維持」(独立運動の押さえ込み)のフェーズから、「全面戦争」へと移行する。4月1日には非常事態宣言が出され、検閲や夜間外出禁止令の発出が可能になった。8月20日には、アルジェリア北東部のフィリップヴィル(現スキクダ)で、民族解放戦線(FLN)による大規模な襲撃が発生し、フランス系入植者を含む多数の民間人が殺害された。フランス軍の報復も凄惨を極め、双方の憎悪はエスカレートしていく。フランス国内では、6月11日にル・マン24時間耐久レースの最中、メルセデス・ベンツが爆発炎上し、80名以上の観客が死亡する大事故が発生した。

ル・マン市郊外サルト・サーキットの事故現場にあるメモリアル・プレート

ル・マン市郊外サルト・サーキットの事故現場にあるメモリアル・プレート ©Stevingtonian

イタリアは戦後復興を終え、高度経済成長の入り口に立っていた。1955年は、その成長を計画的かつ持続可能にするための枠組みが作られた年である。予算大臣エツィオ・ヴァノーニは、イタリア初の長期経済計画である「所得と雇用の発展のための10年計画」(ヴァノーニ・プラン)を発表した。これは、豊かな北部と貧しい南部の経済格差是正、失業の解消、国際収支の均衡を目指す野心的な計画であり、政府主導の投資による産業構造の高度化を方向付けた。同年12月14日には、悲願であった国際連合への加入も果たし、大戦終結前の「ファシズム国家」から、西側民主主義陣営の一員となっている。

イタリアと同時(同年同日)に、スペインも国際連合加盟国となった。フランコ独裁体制は続いていたが、国連加盟は経済開放への圧力になり、自由化への萌芽が見られるようになったのがこの年である。

アイゼンハワー大統領政権下の1955年、アメリカ合衆国は経済的繁栄の絶頂にあった。象徴的な出来事は、最初のディズニーランド開園(カリフォルニア州アナハイム)で、初日は客が殺到して大混乱に陥っている。一方、社会の深層では人種差別に対する怒りが爆発寸前であった。前年5月に、歴史的なブラウン判決(公立学校における、主に黒人を対象とした人種隔離政策を違憲とする連邦最高裁判決)が下されていたにもかかわらず、痛ましい事件がまた起きた。8月のミシシッピー州で、14歳の黒人少年エメット・ティルが、口笛を吹いただけで白人たちのリンチにあって惨殺され、あろうことか犯人が無罪放免となったのだ。また、アラバマ州モンゴメリーでは12月、市営バスに乗車・着席していた黒人女性ローザ・パークスが、白人から席を譲るように促され、拒否した結果逮捕された。これを契機に、マーティン・ルーサー・キング牧師による非暴力のバス乗車ボイコット運動(モンゴメリー・バス・ボイコット)が始まり、公民権運動は組織化、大衆化されていく。

黒人女性ローザ・パークスが乗っていたモンゴメリーのバス(実物)

黒人女性ローザ・パークスが乗っていたモンゴメリーのバス(実物) ©Rmhermen

1-2. 日本の出来事

1955年は、日本の戦後史における最大の画期のひとつである。政治においては 「55年体制」が確立し、経済においては「神武景気」が始まり、社会は復興から成長へと舵を切った。「もはや戦後ではない」という経済白書の宣言(1956年)前夜にあたるこの年は、 現代日本のシステムが完成した「元年」と言える。

55年体制とは、1955年から1993年まで38年間続いた、政党政治の体制を指す。自由民主党(自民党)を与党とする一党支配に、最大野党の日本社会党が対峙する構図である。まず、サンフランシスコ講和条約への対応をめぐって左派・右派に分裂していた日本社会党が、10月に大同団結を果たす。革新勢力拡大の可能性に危機感を抱いた保守二党(日本民主党と自由党)もまた、11月に合併し、自由民主党が誕生した。この睨み合いは、1993年に細川連立政権が誕生するまで日本の政治を規定し、自民党一党優位の下での経済成長と日米安保体制の維持を可能にした。

自由民主党の結党大会

自由民主党の結党大会

経済面では、日本経済が朝鮮特需の反動不況を脱し、長期的な高度経済成長の波に乗った起点の年である。初代天皇にちなんで「神武景気」と名付けられたこの好況は、物価の上昇を伴わずに生産と輸出が拡大する、数量景気の様相を呈した。世界経済の好調を背景に、造船や鉄鋼などの輸出が伸長する。消費生活においては、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれ、庶民の憧れの的となり始めた。これら家電製品の普及は、電機産業の爆発的な成長を促すと同時に、家事労働からの解放という生活革命をもたらしたとされる。大型の耐久消費財では、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)が、初代のトヨペット・クラウン(RS型)を発売した。海外技術との提携に頼らず、純国産技術で開発された本格的乗用車の登場は、日本の自動車産業が世界水準への挑戦を開始した記念碑的出来事であった。東京通信工業(現ソニー)が、日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売したのもこの年である。小型化技術による日本製品の優位性を、世界に予感させた。

1955年1月発売の初代トヨペット・クラウン(RS型)©Morio

1955年1月発売の初代トヨペット・クラウン(RS型)©Morio

日本の1955年は、経済成長の裏で、深刻な海の事故や食品公害が発生し、安全管理や企業の社会的責任が問われた年でもあった。5月11日には、国鉄宇高連絡船「紫雲丸」が濃霧の瀬戸内海で貨物船と衝突して沈没。修学旅行中の児童生徒100名を含む168名が死亡するという大惨事となった。この悲劇によって、本州と四国を結ぶ「瀬戸大橋」建設の機運が高まる。森永ヒ素ミルク事件(6月頃〜)という、食の安全性をめぐる深刻な公害事件も起きた。森永乳業が製造した粉ミルクへ、安定剤に含まれていたヒ素が混入。西日本を中心に1万3千人以上の乳幼児がヒ素中毒となり、130名以上が死亡した。

1-3. カルチャー(本、映画など)

芥川賞の受賞作は、遠藤周作の『白い人』、石原慎太郎の『太陽の季節』だった。遠藤はその後キリスト教作家として、息の長い活躍を見せた。石原のデビュー作は、荒ぶる若者の放埒な生活を描き、「太陽族」と呼ばれたフォロワーを生んだ。石原は後年東京都知事になる。直木賞はこの年、新田次郎の『強力伝』、邱永漢の『香港』が受賞している。1955年の日本におけるベストセラー1位は、佐藤弘人のエッセイ集 『はだか随筆』であった。ほかの書籍では、のちに国民的辞書となる岩波書店の中型国語事典、『広辞苑』の第一版がランクインしている。

海外文学に目を向けると、1955年に発表された作品の中では、ロシア人作家ウラジミール・ナボコフ(1945年アメリカに帰化)による『ロリータ』が、この年に刊行されている。少女性愛を描いた問題作で、国際的な評価(あるいは毀誉褒貶)を得た。1955年のノーベル文学賞の受賞者は、20世紀のアイスランドを代表する小説家・詩人・戯曲作家、ハルドル・ラクスネスだ。『独立の民』(1934)などが代表作だが、邦訳されている作品は少ない。

1973年のナボコフ ©Walter Mori

1973年のナボコフ ©Walter Mori

映画の秀作を見ていこう。1955年、キネマ旬報ベストテンの第1位は、成瀬巳喜男監督の『浮雲』である。戦後の日本映画黄金時代を代表する脚本家・水木洋子が、人気作家・林芙美子の原作を手掛けた本作は、監督の成瀬、主演の高峰秀子の両名にとって生涯最高の作品と言われている。同時代の巨匠・小津安二郎監督をして、「俺にできないシャシンは溝口(健二)の『祇園の姉妹』と成瀬の『浮雲』だけだ」と語らしめた歴史的傑作である。

『浮雲』のスチール写真(主演の高峰秀子と森雅之)

『浮雲』のスチール写真(主演の高峰秀子と森雅之)

アメリカ映画はどうだったか。この年のアカデミー作品賞を受けたのは、エリア・カザン監督の『波止場』である(公開は前年の1954年)。作品賞だけでなく、監督賞、脚本賞、主演男優賞、助演女優賞、撮影賞(白黒部門)、美術監督賞(白黒部門)、編集賞の合計8部門を獲った。カザンが作品賞、監督賞をダブル受賞するのは、1948年の『紳士協定』に続いて2度目である。

ヨーロッパの国際映画祭の筆頭であるカンヌでは、デルバート・マン監督のアメリカ映画 『マーティ』がパルム・ドールに輝いた。ヴェネツィア国際映画祭で最高の作品に贈られる金獅子賞は、カール・ドライヤー監督のデンマーク映画 『奇跡』。ベルリン国際映画祭では、ロバート・シオドマク監督のドイツ映画、『DIE RATTEN』に金熊賞が贈られた(本邦未公開作品)。

音楽の世界では、大手レコード会社が、LP、EPレコードの定価を大幅に下げ、大衆への音楽の普及速度を上げた。1月に、史上初のロック&ロール・コンサートがニューヨークで開催された。5月、フロリダ州で開かれたエルヴィス・プレスリーのコンサートで、初の暴動が起き、ロックは加熱していく。7月には、前年に発表された『ロック・アラウンド・ザ・クロック』(ビル・ヘイリー&ヒズ・ヒメッツ)が、ロックの楽曲として初めて、ビルボード・チャートの1位に輝いた。クラシックの世界では6月、天才ピアニストグレン・グールドが、代名詞となるゴルトベルク変奏曲(バッハ作曲)の初レコーディングを完了した(1956年発売)。ジャズの世界では、伝説的トランペッターのマイルス・デイヴィスがコロンビア・レコードと契約し、ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズと組んだ、ジャズ史に残る「偉大なクインテット」が結成された。

1955年のビルボード年間チャートで最高位に輝いたのは、「マンボの王様」の異名をとるペレス・プラド楽団によるインストゥルメンタル・カバー曲、『チェリー・ピンク・アンド・アップル・ブロッサム・ホワイト』。週間チャートで、10週にわたって第一位を獲得し、ソング・オブ・ザ・イヤーになった。

ピアノに向かうグレン・グールド

ピアノに向かうグレン・グールド ©Don Hunstein

1955年に生を受けた著名人について、手短に紹介しよう。財界ではスティーヴ・ジョブズ、ビル・ゲイツら。スポーツ界では、F1ドライバーのアラン・プロスト、ゴルファーのグレグ・ノーマン、力士の千代の富士、ボクサーの具志堅用高、サッカー選手のカール・ハインツ・ルンメニゲ、野球選手の掛布雅之、江川卓ら。文学界では、小説家のジョン・グリシャム、篠田節子、劇作家・演出家の野田秀樹ら。音楽界ではチェリストのヨーヨー・マ、ロック・ギタリストのエドワード・ヴァン・ヘイレン、ポップ・ジャズミュージシャンの矢野顕子、シンガーソングライターの松山千春、竹内まりや、歌手の西城秀樹、郷ひろみ、世良公則、アグネス・チャンら。漫画界では鳥山明、寺沢武一ら。映画界では、監督の黒沢清ら。俳優では、ウーピー・ゴールドバーグ、ケビン・コスナー、ブルース・ウィルス、イザベル・アジャーニ、佐野史郎、田中裕子ら。タレントでは明石家さんま、所ジョージ、上沼恵美子らが、それぞれこの年の生まれである。

死没者としては、『堕落論』などで知られる小説家の坂口安吾、『魔の山』のトーマス・マン、『桜の園』のミハイル・チェーホフ、ジャズ・サックス奏者のチャーリー・パーカー、相対性理論で知られる物理学者アルベルト・アインシュタイン、ペニシリンを発見した細菌学者アレクサンダー・フレミング、俳優のジェームズ・ディーン、画家のモーリス・ユトリロらがいる。

2. 1955年にはどんなワインが造られたか?

2-1. ボルドーワインの1955年ヴィンテージ

かなりの秀作年なのだが、偉大な1953年の影に隠れている上に、翌1956年が「20世紀で最も悲惨なヴィンテージ」だったため、今では話題に上らず、過小評価もされている。古酒の神様マイケル・ブロードベントの採点は、赤が四つ星、甘口白は五つ星と高評価だ。ボルドーのヴィンテージに関する大著を書いたニール・マーティンは、この年の赤について、「美しいバランスで、遅咲き、頂点に達するまで歳月がかかる」と述べている。もうひとりのボルドーワインのイギリス人専門家ジェーン・アンソンも、1955年について、「堅牢かつ凝縮したワインで、多くの銘柄が数十年の熟成に耐えた」と記した。今でも、トップシャトーなら美味しく飲めそうだ。

マーティンによれば、第二次世界大戦後になって初めて、価格上昇が見られたのがこの1955年らしい。ただし、1953年、1959年、1961年という超良作年に挟まれていたため、市場に出てからは過小評価され続けた。

3月は氷点下まで冷え込む日があったものの、月の終わりには急に暖かくなった。4月はカラカラの天気だったが、場所により月末に雹が降っている。5月上旬には恵みの雨が降り、下旬には開花が始まり、ムラなく6月上旬まで続いた。6月、7月はかなり気温が高かったが、時折軽い雨が降るといういい塩梅だった。ただし、7月末には大雨も降っている。8月の天候も安定していて、夜温がしっかり下がった。収穫が始まったのは9月半ばである。左岸でカベルネ・ソーヴィニョンが収穫されたのは10月上旬で、8日の豪雨で一時中断があった。ソーテルヌでは、9月下旬から摘み取りが始まり、10月末までの長い期間をかけて、貴腐化した果実を選んでいった。収量の多い年である。

2-2. ブルゴーニュワインの1955年ヴィンテージ

ボルドーと同じく、過小評価されているヴィンテージで、目立たないものの、秀でてはいる。ブルゴーニュ専門の評論家アレン・メドウズによれば、赤は「フルボディでおおらかな酒躯が、堅牢なタンニンによって補強されている」ため、発売当初はかなりの人気だったという。とはいえ、熟成はしない年、早飲みすべき年というのが大方の見方だった。しかし、2000年代になってその予想を裏切る、優雅な姿に進化した赤の銘柄たちが現われる(とはいえ、すべてが好ましく変化したわけではない)。遅咲きという点も、この年のボルドーと似ていて、白についても、同じ傾向が見られるそうだ。ただ、やや否定的な見解もあって、同じくブルゴーニュ専門の評論家ジャスパー・モリスは、「大変力強いが、色気あるいはヴィロードのような口あたりに欠け、上物のヴィンテージには入らない」と、少々手厳しい。マイケル・ブロードベントのヴィンテージ評価は、赤は三つ星、白は四つ星である。アレン・メドウズは、赤白合わせて三つ星半の評価を下した。

開花は遅く、収穫開始も10月第一週と遅かった。収穫期の天候は良好、果実は適度に熟していて、カビにもやられておらず、酸味もしっかり保たれていた。コート・ド・ニュイ地区では、とりたてて大きな天候被害はなかったが、コート・ド・ボーヌ地区では8月に、嵐が二度到来した上に雹も降った。全体として収量は高めだったものの、雹にやられた畑はこの限りではない。シャブリ地区も、春の遅霜にやられて収量が減った。

2-3. その他の産地

ローヌ渓谷は、まずまずのヴィンテージだった(ブロードベント三つ星)。ロワール渓谷も同じで、ブロードベントは、「良好だが、1947年や1949年のような豊潤さや気品に欠ける」という評価である(三つ星)。アルザス地方はパッとしなかったようだ(ブロードベントの採点なし)。シャンパーニュ地方は、優良ヴィンテージ(同四つ星)で、酸のしっかりした優れた銘柄が多数生まれた。収量も多かった。

ドイツは、ブロードベント二つ星と評価は低い。早飲みの年として、早々に消費されてしまった。ただし、例外的に素晴らしいボトルもあった(後述)。

イタリアは、悪くない。ブロードベントの評価は、ピエモンテが三つ星で、トスカーナが四つ星。後述するように、トスカーナ州のモンタルチーノ丘陵では、伝説のボトルが誕生した。

スペインはどうだったか。当時の中心産地リオハの評価は高く、同地方では1952年に並ぶ良作年となった。名門マルケス・デ・リスカルの当時の旗艦銘柄レセルバ・メドックは、アルコール10.8%ながらも、21世紀に入ってもなお、風味の持続性を保つ素晴らしい状態にあったという記録が残っている(2010年代後半に行なわれた、ワイナリーでの垂直試飲において)。リベラ・デル・ドゥエロ地区で唯一の銘醸だったベガ・シシリアはこの年、目立った成果を上げられなかった。

ポートワインの産地ドウロ渓谷はこの年、ブロードベントの五つ星。品質と収量が両立した幸せな年で、26ものハウスがヴィンテージ宣言をした。一方、同じポルトガル領の酒精強化の産地、マデイラ島はこの年ふるわなかった。

1955年のカリフォルニア(ナパ)は、まずまず良いヴィンテージだった。赤だけでなく、よい白も造られた。ただし、春の遅霜のせいで収量は少なかったし、カリフォルニアでは珍しく、収穫期に雨が降った。長期熟成型ではなく、今日まだ命がある銘柄は、ごくわずかである。

オーストラリアのバロッサ・ヴァレーでは、ほどよい暑さと乾燥が続く中、ときどき雨が降るという理想的な天候推移をした。ブドウは完熟し、高品質のワインが造られた。

2-4. 伝説のワインは生まれたか

ボルドーの赤ではこの年、五大シャトーをブロードベントは称賛している。ラフィット、マルゴー、ムートン、ラトゥールがすべて五つ星の評価だが、オー・ブリオンは惜しくも四つ星だった。メドック地区の格付けシャトーでほかに高評価なのは、ベイシェヴェル、デュクリュ・ボーカイユ、グリュオ・ラローズ(すべて四つ星)。右岸では、シュヴァル・ブランが五つ星である(オーゾンヌについては試飲されておらず、ペトリュス、ラフルールは四つ星)。甘口白で、ブロードベントが五つ星を付けた銘柄はイケムのみだが、クリマン、クーテ、シュデュイロー、ラフォリ・ペラゲ、レイヌ・ヴィニョーが四つ星だった。ニール・マーティンは上記に加えて、メドック地区の赤ではランシュ・バージュ、コス・デストゥルネル、ピション・バロン、バタイエ、タルボ、パルメを。グラーヴ地区の赤ではラ・ミッション・オー・ブリオン(20世紀の頂点のひとつとまで激賞)、レ・カルム・オー・ブリオンを。右岸の赤ではサンテミリオン地区のフィジャック、ポムロール地区のトロタノワ、ラトゥール・ア・ポムロール、ラ・クロワ・ド・ゲを。甘口白ではソーテルヌ地区のギロー、ジレット・ドゥーを、この年の秀逸なワインとして挙げている。

ブロードベントは、1955年産ブルゴーニュ赤のどの銘柄にも、五つ星を付けなかった。四つ星をもらったのは、赤ではヴォギュエのボンヌ・マール、ルロワのシャンベルタン・クロ・ド・ベーズ、ルイ・ラトゥールのシャンボール・ミュジニ(村名)およびシャトー・コルトン・グランセイの四銘柄だが、いずれも1980年代半ばの採点である。白では、ルイ・ラトゥール、ブシャール・ペール・エ・フィス、ジョゼフ・ドルーアンによるコルトン・シャルルマーニュが四つ星だが、試飲時期が1960年代から1980年代初頭までである点には注意が必要だ。アレン・メドウズが、この年に90点以上の得点を与えた赤は、DRCのロマネ・コンティ(94点/2007年試飲)、DRCのリシュブール(93点/2006年)、DRCのラ・ターシュ(90点/2003年)、ルロワのシャンベルタン(95点/2003年)、ルロワのコルトン(93点/2007年)、モメサンのクロ・ド・タール(94点/2009年)、ルーミエのシャンボール・ミュジニ・レザムルーズ(94点/2007年)、ルーミエのボンヌ・マール(92点/2010年)、フェヴレのミュジニ(91点/2016年)、トラペのシャンベルタン(93点/2014年)、リジェ・ベレールのシャンベルタン(94点/2004年)、リジェ・ベレールのラ・ロマネ(91点/2015年)、オスピス・ド・ボーヌ(瓶詰めはフェヴレ)のコルトン・キュヴェ・ドクトール・ペスト(93年/2014年)、シャルル・ヴィエノのリシュブール(93点/2010年)、ジョゼフ・ドルーアンのロマネ・サン・ヴィヴァン(92点/2012年)、シャンソン・ペール・エ・フィスのリシュブール(92点/2010年)、フランソワ・ラマルシュのラ・グランド・リュ(92点/2008年)、ミニュレ・ジブールのエシェゾー(91点/2004年)である。いずれも、試飲年代が2000年以降と比較的新しく、95点以上の銘柄こそないものの、なかなかに層が厚い。白については、ブロードベントも高く評価したブシャールのコルトン・シャルルマーニュが、メドウズの評価でも96点(2005年試飲)と飛び抜けている。他に、メドウズが90点以上を与えた白として、ルーロ・エルヴェのムルソー・シャルム(94点/2012)、J・トランのコルトン・シャルルマーニュ(92点/2015)がある。

シャンパーニュで、ブロードベントが五つ星を献上した銘柄は、クリュッグ、ポル・ロジェ・ブリュット、ルイ・ロデレール・エクストラ・ブリュットの三つ。四つ星が、ヴーヴ・クリコ、ボランジェRD、シャルル・エイドシックだった。

冴えない年になったドイツでも、特異点の逸品は誕生している。バーデン地方の名門ヴォルフ・メッテルニヒが、銘醸畑ドゥルバッハー・シュロスベルクから生産したクレヴナー・トラミナーの白に、ブロードベントは満点の五つ星を献上した。300本という極端に少ない生産本数のこの甘口ワインは、黒ブドウと白ブドウをブレンドしていて、ブドウ果汁の糖度は200エクスレに到達した(ブリックス糖度で47、トロッケンベーレンアウスレーゼの最低エクスレ度は150~154)。ブロードベントの試飲は1995年で、それから30年以上が経過した今、さすがにもう未開封のボトルは現存しないだろう。

この年に多数生産されたヴィンテージ・ポートのうち、ブロードベントはダウ、フォンセカ、グラハム、ワレに五つ星を与えた。これらのボトルは、潤沢ではもちろんないものの、まだ市中在庫を手に入れられるし、国際小売価格も10万円前後と、この年代の古酒としてはお手頃だ。傑出したヴィンテージ・ポートは、100年軽くもつ。狙い目だ。

オーストラリアを代表する赤ワイン、ペンフォールズのグランジは1955年、地元で極めて高い評価を得た。ワイナリーの発表資料によれば、12のトロフィーと52の金メダルを国内開催のコンテストで授かったという。2000年にアメリカの雑誌『ワイン・スペクテーター』が、「20世紀最高の12本のワイン」を選んだとき、この年のグランジはその中に入った。ブロードベントも五つ星を与えている。

1955年産で、ロバート・パーカー自身が100点満点を与えたワインとしては、シャトー・ラ・ミッション・オー・ブリオン(ボルドー)がある。

スティーヴン・スパリュアが、『死ぬ前に飲むべき100のワイン』の中に含めた、1955年産のワインはない。

さてここで、1955年のワイン・オブ・ザ・ヴィンテージ、伝説のボトルを選ぶとしよう。この年は、イタリア・トスカーナ州モンタルチーノ丘陵で、歴史的大傑作が生まれた。ブルネッロ・ディ・モンタルチーノの生みの親とされる名門ビオンディ・サンティのリゼルヴァだ。この銘柄は、上述の1955年産グランジとともに、『ワイン・スペクテーター』が発表した、「20世紀最高の12本」に選ばれている。モンタルチーノ丘陵の、いやトスカーナ州のワインが、世界最高峰のボルドーやブルゴーニュと競れるのだと初めて示した老舗蔵が、ビオンディ・サンティだ。20世紀では1925、1945、1964、1975、1982、1983といったヴィンテージも神がかった出来映えとされるが、『ワイン・スペクテーター』は1955を20世紀のベストだと判断した。1997年、ワイナリーでこのワインを試飲した同誌のジェームズ・サックリング(当時。現在は独立)は、「熟した果実の豊潤さと、シルクのようなタンニンの優雅さは、現代最高のトスカーナであれども、再現できるのは数軒であろう」と記している。「タンニン、果実味、酸味の対称性は、サンジョヴェーゼとして完璧に近い」

マイケル・ブロードベントも、1985年にリコルクされたビオンディ・サンティのボトルを、1995年に飲んだ。最初にグラスに注がれた際には、潮風のような魅惑的な香りがしたという。「甘やかで、フルボディ、素晴らしい風味で、果実味とグリップ、持続性があった」というコメントを残している。

ちなみにこのワイン、発売時にはわずか6米ドルだった。ワインの国際市場価格検索サイト、Wine-Searcherに掲載されている直近の平均価格は、8,561米ドル(税別)である。

3. 1955年ヴィンテージのまとめ

この年、イタリアは国際連合に加入し、ふたたび世界に向けて開かれつつあった。しかしながら、ワイン製造業はまだまだで、ピエモンテやトスカーナといった今日の大銘醸地も、国際市場から見れば「安酒の産地」でしかなかった。そんな中、ビオンディ・サンティが、孤高の存在として、黙々と偉大なワインを仕込んでいたのは感嘆に値する。トスカーナが世界の耳目を引くのは、1960年代末から始まるスーパー・タスカンのムーヴメントを待たねばならず、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノがアメリカ市場に「発見」されるのは、1980年代とさらに遅い。1955年のイタリアワインは、無名の闇の中にあった。そんな状況下で、サンジョヴェーゼを信じ、丘陵のテロワールを信じたパイオニアの頑固さが、今日の隆盛を生んだ。


【主要参考文献】
『世紀のワイン』 ミッシェル・ドヴァス著(柴田書店、2000)
『ブルゴーニュワイン100年のヴィンテージ 1900-2005』 ジャッキー・リゴー著(白水社、2006)
『ブルゴーニュワイン大全』 ジャスパー・モリス著(白水社、2012)
Jasper Morris, Inside Burgundy 2nd Edition, BB&R Press, 2021
Jane Anson, Inside Bordeaux, BB&R Press, 2020
Stephen Brook, Complete Bordeaux 4th Edition, Mitchell Beazley, 2022
Allen Meadows, Burgundy Vintages A History From 1845, BurghoundBooks, 2018
Michael Broadbent, Vintage Wine, Websters, 2006
Steven Spurrier, 100 Wines to Try before you Die, Deanter, 2010
Robert Parker’s 100-Point Wines, Wine-Searcher

豊かな人生を、ワインとともに

(ワインスクール無料体験のご案内)

世界的に高名なワイン評論家スティーヴン・スパリュアはパリで1972年にワインスクールを立ち上げました。そのスタイルを受け継ぎ、1987年、日本初のワインスクールとしてアカデミー・デュ・ヴァンが開校しました。

シーズンごとに開講されるワインの講座数は150以上。初心者からプロフェッショナルまで、ワインや酒、食文化の好奇心を満たす多彩な講座をご用意しています。

ワインスクール
アカデミー・デュ・ヴァン

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1972 年にパリで誕生したアカデミー・デュ・ヴァンは、日本でもっとも歴史あるワインスクールです。ワイン・日本酒・チーズなど、お酒と食の学びを通じて、初心者の方から第一線で活躍するプロフェッショナルまで毎年 6,000 名以上の方々に支持されています。スクール運営をはじめ、テイスティングバーやワインショップ、イベントなど、学びと体験をつなぐ多彩なサービスを展開しています。