ワインは毎年、秋が来れば仕込まれる。偉大と称されるワインは皆、ブドウが摘まれ、酵母の力で酒に変わった年――ヴィンテージをラベルに記している(シャンパーニュなどで一部例外はあるが)。好天続きで、労せずして優品が量産されたような年もあれば、雨、霜、雹、熱波といった天候イベントによって、造り手が唇を噛んだ年もある。ただ、どれひとつとして同じ年はなく、優れたワインはどこの地域の産であれ、ヴィンテージの個性が刻印されている。
本連載では、第二次世界大戦が終わった年から現在に至るまでのヴィンテージを、世相や文化とともに、ひとつずつ解説していく。ワイン産地の解説としては、フランスの二大銘醸地であるボルドー、ブルゴーニュを中心とするが、折にふれて他国、他産地の状況も紹介していく。
本記事では、1956年を取り上げよう。フランスで一世紀に一度級の厳しい凍害が発生し、絶望的な状況に陥ったヴィンテージである。
【目次】
1. 1956年はどんな年だったか?
1-1. 世界の出来事
1-2. 日本の出来事
1-3. カルチャー(本、映画など)
2. 1956年にはどんなワインが造られたか?
2-1. ボルドーワインの1956年ヴィンテージ
2-2. ブルゴーニュワインの1956年ヴィンテージ
2-3. その他の産地
2-4. 伝説のワインは生まれたか
3. 1956年ヴィンテージのまとめ
1. 1956年はどんな年だったか?
1-1. 世界の出来事
東西2極の冷戦構造に、動きがあった年である。ソ連の独裁者ヨシフ・スターリン(1953年逝去)の諸政策や苛烈な粛正を、後継のニキータ・フルシチョフ第一書記が強く糾弾した(スターリン批判)。磐石だった東側の体制に、一筋の深い亀裂が入った形だ。一方で、イギリスおよびフランスが中東で引き起こした第二次中東戦争(スエズ戦争)の挫折は、欧州大国による伝統的な植民地主義の終焉と、米ソ二大国による覇権秩序の定式化を裏付けた。
まずはソ連と東側諸国で起きた「脱スターリン化」の動きだ。1956年2月14日から開催されたソ連共産党第20回大会は、スターリンの死後初めて開催された大会で、個人独裁体制から集団指導体制への転換、平和共存路線への外交政策の変更が、フルシチョフより発表された。この演説に先立って、スターリンが1920年代前半から敷いてきた独裁政治の中で、莫大な数の政敵、外国人などを拷問・虐殺、僻地への追放など弾圧の限りを尽くしていた事実が明らかになっている。スターリン批判の影響で、ソ連と衛星共産国による思想統制機関、コミンフォルム(1947年設立)も解散された。

1936年に撮影されたフルシチョフ(左)とスターリン(右)。フルシチョフは側近であった
同批判は、東欧諸国にも政治的混迷をもたらしている。ポーランドでは6月、西部の工業都市ポズナンで、労働者による賃金引き上げと政治的自由を求めるストライキが、反ソ・反共暴動へと発展した(ポズナン暴動)。多数の死傷者を出して暴動は鎮圧されたが、共産党体制内の改革派が勢いづき、一定の自主路線を勝ち取った契機となっている。ポーランドの動きに触発されたハンガリーの首都ブダペストでは、10月23日に学生や労働者が反ソ・民主化を求める大規模デモを開始した(ハンガリー動乱)。民衆の圧に押されたナジ・イムレ政権は、ワルシャワ条約機構からの脱退および永世中立を宣言したが、ソ連の軍事介入、市街戦によって潰され、傀儡であるカーダール・ヤノーシュ政権が新たに樹立された。ハンガリーからはこの時、弾圧を怖れて20万人もの亡命者が出ている。

ハンガリー動乱の一コマ。ソ連の戦車が、ブダペスト路上のバリケードを突破しようとしている
中東もこの年、大きく動いた。第二次中東戦争またはスエズ動乱(10月29日~11月6日)の勃発で、イスラエル、イギリス、フランス、エジプトが争った。1952年には権力掌握を果たしていたエジプトのガマール・アブドゥル・ナセルが、1956年に同国の初代大統領になると、株式の過半数をイギリスが保有していたスエズ運河の国有化を宣言する。前述の三国は、エジプトへの軍事行動を秘密裏に開始したが、米国アイゼンハワー政権が植民地主義の侵略に反発し、英仏に経済的・政治的圧力をかけたほか、ソ連もまた、核攻撃の可能性を示唆して牽制した。結果、国連総会で即時停戦決議が採択され、三国はシナイ半島から完全撤退する。スエズ運河はエジプトの所有物となり、今に至っている。
次に、欧州の重大な出来事を見ていこう。第四共和政下のフランスは、植民地問題の泥沼化により、政治的混迷の極みにあった。ギ・モレ内閣(1月発足)は、アルジェリア戦争(1954年~)に対して当初融和政策を掲げていたが、ピエ・ノワール(アルジェリア在住のフランス人)たちの反発を受けて方向転換、3月に緊急事態法を定めた。その流れで、民族解放戦線(FLN)に対する軍事弾圧を強めたのだが、FLNはゲリラ戦やテロで対抗し、フランス人の運営する施設を破壊、軍人や警察官などを殺害した。同年3月にフランス政府は、仏領モロッコおよびチュニジアの独立を容認しており、スエズ動乱における軍事介入の失敗(上述)もあって、同国の国際的権威はこの年に大きく失墜している。
西ドイツ(ドイツ連邦共和国)では、アデナウアー首相のもとで奇跡的な経済復興が続いていた。前年のボン・パリ協定発効による主権国家としての地位回復、NATO加盟の延長線上でこの年、徴兵制を導入する連邦国防法が成立し、再軍備が本格的な制度化へと向かった。強制的な徴兵制は、冷戦終結後の2011年に廃止されたものの、2026年に入って志願制の徴兵制として復活している(2022年に勃発したウクライナ戦争で露呈した、ロシアの脅威が背景)。
イタリアは戦後復興を終え、北部の工業地帯を中心とする経済成長の初期段階にあった。1月26日から2月5日にかけては、北東部ヴェネト州コルティナ・ダンペッツォで冬季五輪が開催され、復興を世界にアピールする舞台となっている。一方で、上述の東欧ハンガリー動乱は国内政治、特に西欧最大の勢力を誇ったイタリア共産党(PCI)に、大きな衝撃を与えた。党指導部はソ連の軍事介入を支持したものの、労働組合幹部や文化人・党員の大規模な離党・反発が相次ぎ、党内での路線対立が表面化している。

コルティナ・ダンペッツォ冬期五輪(1956年)
オーストラリア(豪州)では、11月22日から12月6日にかけて、ヴィクトリア州の州都メルボルンにおいて夏季五輪が開催された。南半球およびオセアニア地域で初の開催だったが、直前に発生したハンガリー動乱に対する抗議としてオランダ、スイス、スペインがボイコットを表明したほか、第二次中東戦争の影響でエジプト、イラク、レバノンが参加を見送っている。また、水球競技の準決勝(ソ連対ハンガリー戦)では、流血を伴う選手間の暴行事件(メルボルンの流血戦)が発生するなど、冷戦の影が色濃く落とされた大会となった。ハンガリー代表は水球で金メダルを獲得し、閉幕後にはハンガリー選手団100人のうち45人が西側諸国に亡命している。
アメリカ合衆国においては、共和党のドワイト・アイゼンハワー大統領が、未曾有の経済的繁栄・大型景気を背景に、11月の大統領選挙で再選を果たした。政策面では6月、全米を網の目状に結ぶ巨大インフラ計画である連邦補助高速道路法(全米州間国防高速道路法)が成立・施行され、州間高速道路網の建設が始まっている。アメリカの巨大な自動車社会を準備したこの法令では、道路を戦闘機の滑走路兼、核戦争時の避難経路としても使うという、冷戦期ならではの活用法も想定されていた。社会面では6月、グランドキャニオン上空でユナイテッド航空機とトランス・ワールド航空機が空中衝突し、両機の乗員乗客128名全員が死亡する惨事が発生している(グランドキャニオン空中衝突事故)。

グランドキャニオン空中衝突事故の想像図 ©Anynobody
1-2. 日本の出来事
ソ連(現在はロシア)とのかりそめの関係を取り結んだ、「日ソ共同宣言」が締結された年である。国交こそ回復したものの、その後70年が経過しても、ロシアとの平和条約締結には至っておらず、北方領土4島の返還交渉は暗礁に乗り上げたままだ。ただし、ソ連との国交回復は、国際連合への全会一致での加盟につながった(80番目の加盟国)。外務大臣であった重光葵は、国連総会の加盟受託演説で、「日本は東西の架け橋になり得る」と述べている。敗戦国としての孤立状態から、国際社会の正規の構成員として、改めて認められた瞬間であった。

国際連合憲章及び国際司法裁判所規程・御署名原本 – 国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵
経済は引き続き絶好調だった。1954年末から始まった大型景気拡大期(神武景気)は、その絶頂を迎えていた。7月17日、経済企画庁が発表した年次経済報告(経済白書)の序文には、「もはや戦後ではない」という言葉が記され、国民の流行語になった。白書は、一人当たり国民所得や生産水準が戦前の最高水準(昭和14年水準)を超えた事実を指摘し、今後の成長は復興ではなく「技術革命」に依存すると分析した。設備投資が爆発的に拡大し、日本の造船進水量は英国を抜いて世界第1位に躍り出ている。インフラ整備も進み、電源開発の象徴である佐久間ダム・佐久間発電所(愛知県・静岡県境)が、着工からわずか3年で完成した。国鉄東海道本線全線の電化も、この年に達成された重要な一里塚である。都市部への人口・産業集中を受け、日本の5大都市(横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市)が全国で初めて、「政令指定都市」へ移行した。
前年に起きた森永ヒ素ミルク事件に続き、1956年もまた、大公害発生の年になった。5月1日、熊本県水俣市にある新日本窒素肥料(チッソ)の工場附属病院から、「原因不明の奇病が発生した」と保健所へ届出がなされ、水俣病が公式確認されたのだ。中枢神経系が侵される深刻な被害が拡大し、11月3日には熊本大学研究班が、原因を「水俣工場排水中の有機水銀」と発表した。戦後の四大公害病のひとつにして、「公害の原点」とも称される同病は、死亡者を含め少なくとも7万人になんらかの被害を及ぼしたと推定されている。患者らによる損害賠償請求訴訟は1969年に始まり、2026年現在も継続中である。
1-3. カルチャー(本、映画など)
芥川賞の受賞作は、近藤啓太郎の『海人舟』だった。直木賞はこの年、今官一 『壁の花』、南條範夫 『燈台鬼』、今東光 『お吟さま』、穂積驚 『勝烏』の四作品が受賞している。今東光(こんとうこう/1898-1977)は、大正末期に新感覚派の作家として出発したのちの1930年に出家、天台宗の僧侶として暮らしていたが、1953年に文壇復帰を果たしていた。直木賞受賞後は、テレビなどの媒体でも活躍し、「昭和の怪人」、「毒舌和尚」などと評されている(自民党所属の参議院議員も一期務めた)。
1956年の日本におけるベストセラー1位は、前年に芥川賞を受賞した石原慎太郎の小説、『太陽の季節』であった。ほかの書籍では、精神科医のヴィクトール・フランクルが、ナチスの強制収容所での生活を克明に記録したルポ、『夜と霧』(原書刊行1946年)がランクインしている(1956年に初の日本語訳が刊行された)。この年に刊行された重要な文学作品としては、三島由紀夫の代表作のひとつ、『金閣寺』がある。
海外文学に目を向けると、1956年に発表された作品の中では、SF小説を大いに発展させた大巨人のひとり、アメリカ人作家ロバート・A・ハインラインによる『夏への扉』が、この年に刊行されている。タイムトラベルを扱った古典作品で、日本のSFファンの中でもいまだに高い人気を誇る。1956年のノーベル文学賞の受賞者は、スペインの詩人、フアン・ラモン・ヒメネスだった。受賞理由は、「高邁な精神と芸術的純度の一例を構成する、スペイン語による彼の叙情的な詩に対して」というもの。詩集 『プラテーロとわたし』(1914、1917)などが代表作だが、邦訳されている作品は少ない。スペインではかつて、2000ペセタ紙幣にその肖像が刷られていた。

フアン・ラモン・ヒメネスの肖像が刷られた、かつての2000ペセタ紙幣
映画の秀作を見ていこう。1956年、キネマ旬報邦画ベストテンの第1位は、今井正監督の『真昼の暗黒』だった。1951年に起きた強盗殺人事件(八海事件)に基づくノンフィクションで、冤罪発生の暗部を描き出した社会派の傑作である(公開当時、八海事件はいまだ、最高裁判所で係争中だった)。このほか、小津安二郎監督の『早春』、成瀬巳喜男監督の『流れる』、市川崑監督の『ビルマの竪琴』も、ランクインしている。
アメリカ映画はどうだったか。この年のアカデミー作品賞を受けたのは、デルバート・マン監督の『マーティ』である(公開は前年の1955年)。作品賞だけでなく、監督賞、主演男優賞、脚色賞の合計4部門を獲った。同作品は、前年のカンヌ国際映画祭でも、パルム・ドールを授かっている。アカデミーの作品賞と、カンヌのパルム・ドールをダブルで受賞したのは、2026年現在で4作品しかない。ほかには、セシル・B・デミル監督の『十戒』が1956年の公開で、モーゼの前で紅海がふたつに割れるシーンがとにかく有名だ。もうひとつ、ジョン・フォード監督の『捜索者』も忘れてはならない。公開当時は評価も興行成績も冴えなかったが、今日ではフォードを、あるいは西部劇全体を代表する傑作のひとつに数えられている。

映画 『マーティ』のスチール写真。主人公アーネスト・ボーグナイン(左)とヒロインのベッツィ・ブレア(右)
ヨーロッパの国際映画祭の筆頭であるカンヌでは、世界的海洋学者ジャック・イヴ・クストーと、名を上げる前の映画監督ルイ・マルが共同で撮った、フランス・イタリア合作映画の『沈黙の世界』がパルム・ドールに輝いた。比較的地味な記録映画だが、テクニカラーで水中を撮影したのは本作品が世界初だった。ヴェネツィア国際映画祭で最高の作品に贈られる金獅子賞は、本年は該当作品なし。ベルリン国際映画祭では、アメリカ人俳優・ダンサー・振り付け師・歌手ジーン・ケリーがメガホンを取った、『舞踏への招待』に金熊賞が贈られた。ジーン・ケリーが自ら踊り続けるバレエ映画で、全編台詞なしという実験作である。
ポピュラー音楽の世界ではこの年、ついにエルヴィス・プレスリーがメジャーデビューを果たした。ロックンロールの爆発がここに始まる。プレスリーが唄った『ハートブレイクホテル』は、ビルボード年間チャートで最高位に輝き、代表曲のひとつになった。なお、プレスリーの楽曲は、年間チャートの第2位(『ドント・ビー・クルーエル』)、第6位(『ハウンド・ドッグ』)にも入っていて、凄まじい人気のほどが伺える。のちにザ・ビートルズがカバーした名曲ふたつ、チャック・ベリーの『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』、リトル・リチャードの『ロング・トール・サリー』も、この年に発表された。

ハーレー社製オートバイにまたがるプレスリー(1956年撮影)
モダン・ジャズ界隈では、世紀の名盤が複数録音された年として、1956年は記憶されている。マイルス・デイヴィスによる、『クッキン』、『リラクシン』、『スティーミン』、『ワーキン』のマラソン・セッション四部作のほか、ソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』、チャールズ・ミンガスの『直立猿人』など。黒人音楽としてのジャズを取り戻し、大衆受けと芸術性の両立を目指した、「ハードバップ」が完成期を迎えていた。
1956年に生を受けた著名人について、手短に紹介しよう。政界では田中康夫(作家としても高名)ら。財界では、元マイクロソフトCEOにしてNBAチームの所有者スティーヴ・バルマー、トヨタ自動車会長の豊田章男ら。スポーツ界では、テニス選手のビヨン・ボルグ、マルチナ・ナブラチロワ、アメフト選手のジョー・モンタナ、サッカー選手のパオロ・ロッシ、ボクシング選手のシュガー・レイ・レナード、バスケ選手のラリー・バード、サッカー選手・日本代表監督の岡田武史、ゴルフ選手の尾崎直道、野球選手の西本聖ら。アート界では、画家のクリスチャン・ラッセンら。文学界では、小説家のパトリシア・コーンウェエル、奥泉光、百田尚樹、笙野頼子ら。音楽界ではクリスティアン・ツィマーマン、ポール・ヤング、ジョン・ライドン、桑田佳祐、佐野元春、大友康平、長渕剛、鈴木雅之、野口五郎、新沼謙治、アン・ルイスら。映画界では、周防正行ら。俳優では、トム・ハンクス、メル・ギブソン、キャリー・フィッシャー、アンディ・ガルシア、竹中直人、役所広司、大地真央、田中好子ら。タレントでは小堺一機、島田紳助、田代まさし、笑福亭笑瓶、アグネス・ラムら。料理界ではアラン・パッサール、アラン・デュカス、陳建一ら。漫画界では、江口寿史、吉田秋生、石坂啓、花咲アキラらが、それぞれこの年の生まれである。
死没者としては、政治家の三木武吉、航空機メーカー創業者のウィリアム・ボーイング、映画監督の溝口健二、性科学者のアルフレッド・キンゼイ、彫刻家・詩人の高村光太郎、画家のマリー・ローランサン、ジャクソン・ポロック、ジャズ・トランペット奏者のクリフォード・ブラウン、劇作家・詩人のベルトルト・ブレヒトらがいる。
2. 1956年にはどんなワインが造られたか?
2-1. ボルドーワインの1956年ヴィンテージ
ボルドー地方では、「L’Année Noire」(暗黒の年)と呼ばれる悲惨なシーズンである。19世紀後半のフィロキセラ禍に匹敵するほどの、激しいダメージをブドウ樹が被った。古酒の神様マイケル・ブロードベントの採点は、赤・白ともに星なし(満点は五つ星)。「Atrocious」(残忍な、非人道的な、ぞっとする)という、通常ワインの文献では見かけない形容詞で、ブロードベントはこの年を表現した。
冬場の強烈な冷え込みで、多数のブドウ樹が枯れた。2月3日にマイナス9℃、15日にはマイナス14℃を記録し、ジロンド河口が凍結した。それから5日間にわたって厳しい寒さは続き、2月21日には雪が降った。以後も、月末まで氷点下の日々ばかりだった。ボルドーのヴィンテージに関する大著を書いたニール・マーティンによれば、同地方がこれほどの寒さに見舞われるのは、1709年以来だったという。一日、二日の氷点下なら、ブドウ樹も耐えられるのだが、これほど続くとそうはいかない。ボルドー地方全体でものすごい本数が枯死し、とりわけ右岸で顕著だった。カベルネよりも凍害耐性が低い、メルロの被害が大きかったのも記憶すべき点である。3月末になると、地方全体でどれだけの株が死なずに済んだかが明らかになったが、そこからのブドウ生育期間がすべて順調だったとしても、平年の数分の1のワインしか造れそうになかった。

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だが、その生育期間も、まったく無事には進んでいない。例年より遅く、4月中旬にブドウは芽吹いたが、6月初旬の開花時には気温が低く、7月には嵐のために深刻な花震いが起きた。7月後半にも大雨が降り、ベト病とウドンコ病が猛威を振るい始める。8月は気温が上がらず、例年の2倍量の雨が降り、ブドウの色づきが非常にゆっくりとしか進まなかった。9月上旬にもまた嵐が来て、カビ病を勢いづかせる。10月上旬になって、ようやく摘み取りが始まった。地方全体の平均収量はこの年、ヘクタールあたり17ヘクトリットルである(前年は41ヘクトリットル)。量だけでなく、質の面でも非常に厳しい結果になった。
シャトー・ペトリュスでは、生き残った樹からどうにかワインを仕込んだが、たったの一樽しか出来ていない(750mlボトルで約300本)。同蔵ではこの年、結局ワインを発売しなかった。ペトリュス以外にも、グラン・ヴァン(看板銘柄)を生産せず、果実を、あるいは仕込んだワインを樽やタンクに入った状態で、他所に売り払ったところは少なくない。
2-2. ブルゴーニュワインの1956年ヴィンテージ
20世紀屈指の忌むべきヴィンテージ。質・量ともに問題外だったため、例年11月に開催されるオスピス・ド・ボーヌの競売会が中止になったほどである。ボルドー地方と、ほぼ変わらない天候推移だった。ブロードベントの採点は、赤は星なし、白については採点自体が存在しない。
1月31日にマイナス12℃を記録してから、2月一杯厳寒が続き、コート・ドール地区でもシャブリ地区でも、マイナス30℃が観測された。寒さに耐えきれず、大量の樹が枯死している。春が来ても、気温は低く雨ばかり、開花は7月中旬まで終わらなかった。7月にはまた、虫に葉を食われる被害が出て、樹の光合成能力が落ちてしまう。夏もずっと気温が低く、大量の雨が降ったので、カビ系の病気も広がった。9月にやっと好天に転じたものの、収穫開始は遅く、10月中旬になった。そこまで待っても、ブドウは完熟からはほど遠い状態だった。

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2-3. その他の産地
ローヌ渓谷もダメだった(ブロードベント採点なし)。ロワール渓谷、アルザス地方、シャンパーニュ地方も同じで、この年のフランスは全滅である。
ドイツも、ブロードベントの星はない。フランス同様、寒く、雨ばかりのヴィンテージだった。モーゼル地方では2週間続けて雨が降ったと、この年の6月に新婚旅行で同地を訪ねたブロードベントは記している。

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イタリアについてもこの年、ブロードベントは採点をしていない。
スペインはどうだったか。当時の中心産地リオハの評価は低い。リベラ・デル・ドゥエロ地区で唯一の銘醸だったベガ・シシリアも、この年には目立った成果を上げられなかった。
ポートワインの産地ドウロ渓谷も、この年は悲惨な天候で、ブロードベントの星はなし。ヴィンテージ宣言をしたシッパー(ハウス)はない。
東欧まで東へ進めば、天候は変わったようで、ハンガリーの甘口産地トカイは、悪くなかった。ブロードベントの採点は三つ星である。
1956年のカリフォルニア(ナパ・ヴァレー)は、かなり良いヴィンテージだった。ブロードベントの採点は四つ星である。
オーストラリアのバロッサ・ヴァレーはこの年、涼しかったせいで、評価はあまり高くない。
2-4. 伝説のワインは生まれたか
ブロードベントがこの年、著書の中で触れたボルドー赤はたった2銘柄しかない。シャトー・ラトゥールについては、悲惨な年にまずまずの質を担保しようとした努力を称えたが、品質が高いとも寿命が長いとも述べてはいない(星の数はゼロ)。シャトー・ラ・ミッション・オー・ブリオンも、コメントが記されてはいるものの、褒め言葉より貶し言葉のほうが多く、最良の状態で二つ星という評価である。ニール・マーティンは、2017年に試飲したレオヴィル・バルトンについて、「生気はないが、飲めるには飲める」と評した。白については、イケムにのみブロードベントが言及しており、評価は二つ星、1980年代にはもう下り坂だったと述べている。
ブルゴーニュ専門の評論家アレン・メドウズは、この悲惨な年に、DRC(ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ)のみが意地を見せ、なかなかのワインを世に出したと評価している。ロマネ・コンティが92点(2007年試飲)、ラ・ターシュが91点(2009年試飲)である。ブロードベントも、ラ・ターシュとロマネ・コンティには著書で言及しているが、星は前者が二つ、後者が一つと決して好意的ではない。
カリフォルニアのナパ・ヴァレーでは、チャールズ・クリュッグのカベルネ・ソーヴィニョン・ヴィンテージ・セレクションがブロードベントの五つ星を獲得した。

チャールズ・クリュッグ・ワイナリーのファサード。1978年に国家歴史登録財に認定された ©Sanfranman59
1956年産で、ロバート・パーカー自身が100点満点を与えたワインは一銘柄もない。
スティーヴン・スパリュアが、『死ぬ前に飲むべき100のワイン』の中に含めた、1956年産のワインもなかった。
さてここで、1956年のワイン・オブ・ザ・ヴィンテージ、伝説のボトルを選ぶとしよう。上述の数少ない銘柄の中から選ぶとすれば、唯一絶賛を受けたナパ・ヴァレーのチャールズ・クリュッグになる。しかし、ここではあえて、ボルドー地方から選びたい。グラーヴ地区の格付けシャトー、パプ・クレマンの赤である。このワインについて、イギリスを代表するワイン評論家のジャンシス・ロビンソンが、2024年に参加した古酒持ち寄りのディナーでの有り様を記録している。良い意味で大いに期待を裏切ったようで、「1956年に起きた本物の奇跡」と評された。このワイン、地球上に残存する本数は限りなくゼロに近いと思われるが、めぐり会えるなら是非味わってみたい。

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3. 1956年ヴィンテージのまとめ
秀逸なヴィンテージばかりに、注意を向けてはならない。飲むに堪えないワインしか生まれなかった、救いようのない年もまた、記憶されるべきなのだ。自然がどれだけ恐ろしく、残酷か。ブドウ栽培家やワイン生産者が、どれほど勇敢に立ち向かったか。ほんのわずかな例外でしかなくても、奇跡は実際に起きている。それは、偉大な年に偉大なワインを造るより、ずっと難しいのだろう。
執筆者:アカデミー・デュ・ヴァン編集部
1972年にパリで誕生したアカデミー・デュ・ヴァンは、日本で最も歴史あるワインスクールです。ワイン・日本酒・チーズなど、お酒と食の学びを通じて、ワイン初心者の方だけでなく第一線で活躍するプロフェッショナルの方々からも支持されています。スクール運営をはじめ、テイスティングバーやワインショップ、イベントなど、学びと体験をつなぐ多彩なサービスを展開しています。
【主要参考文献】
『世紀のワイン』 ミッシェル・ドヴァス著(柴田書店、2000)
『ブルゴーニュワイン100年のヴィンテージ 1900-2005』 ジャッキー・リゴー著(白水社、2006)
『ブルゴーニュワイン大全』 ジャスパー・モリス著(白水社、2012)
Jasper Morris, Inside Burgundy 2nd Edition, BB&R Press, 2021
Jane Anson, Inside Bordeaux, BB&R Press, 2020
Stephen Brook, Complete Bordeaux 4th Edition, Mitchell Beazley, 2022
Allen Meadows, Burgundy Vintages A History From 1845, BurghoundBooks, 2018
Michael Broadbent, Vintage Wine, Websters, 2006
Steven Spurrier, 100 Wines to Try before you Die, Deanter, 2010
Robert Parker’s 100-Point Wines, Wine-Searcher










