ミシェル・ロラン(Michel Rolland 1947-2026)~ ワン・アンド・オンリーの醸造コンサルタント

2026年3月20日、ワイン界の大立者がまたひとり、黄泉の国へと向かった。過去半世紀のワイン醸造を世界規模で変えた醸造コンサルタント、ミシェル・ロラン(Michel Rolland)が逝去したのだ。享年78歳、心臓発作による突然の旅立ちだった。ボルドーに本拠を構えたミシェルは、地球の裏側までジェット機で飛んで助言する、「フライング・ワインメーカー」の先駆けのひとりだった。独自の哲学とスタイルをもち、現代のワインを「ロラン前」と「ロラン後」に分けた。本記事では、この人物のキャリアの原点から、賛否両論を巻き起こした醸造手法、巨大なレガシーなどについて、詳しく紐解いていく。

本記事は、ワインスクール「アカデミー・デュ・ヴァン」が監修しています。ワインを通じて人生が豊かになるよう、ワインのコラムをお届けしています。メールマガジン登録で最新の有料記事が無料で閲覧できます。


【目次】
1. 醸造家としての訓練とキャリアの始まり
2. ラボ開設とコンサルタント開始
3. ミスター・メルロ
4. ボルドーから世界へ
5. ロバート・パーカーとのケミストリー
6. 映画『モンドヴィーノ』でのバッシング
7. 神技的ブレンドの実践
8. オーナーとして関わったワイナリー
9. 後進への継承と突然の逝去
10. 結び


1. 醸造家としての訓練とキャリアの始まり

ミシェル・ロランは、1947年にフランスのボルドー地方右岸に位置する、リブルヌの町で生を受けた。ロラン家は、近郊のワイン産地ポムロールに、シャトー・ル・ボン・パストゥール(Château Le Bon Pasteur)という小規模なワイナリーを所有しており、彼は次男坊だった。

ポムロールがまだ、ひっそりとした無名のワイン産地だった頃である。シャトー・ペトリュスだけが、巧みなマーケティングによるアメリカ市場での成功によって、高い名声を得ていたが、ペトリュス以外はまだ、「その他大勢」でしかなかった。右岸の一般的な風景は、農家の納屋をそのまま醸造所として使うような、小規模な群小生産者が密に軒を連ねる質素な農村地帯であった。このような環境で、ミシェルは幼い頃からブドウ畑とワイン造りを身近に感じながら育った。

学生時代のミシェルは、エリートにはほど遠かった。農業高校に進学し、いわゆる苦学生としての日々を送る。高校を卒業したものの、実家のシャトーには、次男にまで給料を払うだけの経済的な余裕が父にはなかった。そこでミシェルは、ボルドー大学醸造学部(現在のボルドー大学ブドウ・ワイン科学研究所)へと進学する道を選ぶ。後年、本人が「俺は優等生じゃなかったよ」と率直に認めている通り、学業において突出した存在ではなかった。

ボルドー大学ブドウ・ワイン科学研究所の概観

ボルドー大学ブドウ・ワイン科学研究所だが、ボルドー大学での学びは、ロランに啓示を与えた。現代ボルドーワインの父とも称される伝説的な学者、エミール・ペイノー(Émile Peynaud)教授に師事できたからだ。教授は研究の傍ら、地元の多くのシャトーに助言を与え、戦後のボルドーワイン全体の品質水準を決定的に高めた人物である。ペイノーの口癖は、「若くてもおいしく飲め、長い熟成にも耐えられるボルドーの赤ワインを造る」だった。この哲学は、後にミシェル自身が理想とする「若飲みでも美味しく、さらに熟成して違う風味が生まれる」というワイン造りの信念へと、真っ直ぐに受け継がれていく。ペイノーは、研究室にこもるのではなく、現場で醸造家と積極的に対話し、実践を重んじた。ミシェルは、このペイノーの姿勢から、多大な影響を受けたに違いない。ミシェルは父を説得し、ペイノーが月曜朝に行なっていた社会人講座を受けさせたという。父は、中学校を途中で辞め、畑で働き始めたため、正規の醸造学教育を受けていなかった。

ミシェルは著書の中で、恩師への想いを次のように表している。「エミール・ペイノーに敬意を表するのは当然だ。私たちは彼にとても多くを負っている。ペイノーの講義から出てくる時、私たちの精神は養われ、強化されていた。理解したいという欲求、それこそペイノーが、その特徴的な南西部の訛りで私たちに伝えてくれたものだ」

ボルドー大学での生活は、ミシェルのキャリアにおけるもうひとつの幸運をもたらした。当時、醸造学部に在籍していた、たった3人の女学生のうちのひとり、ダニー・ブレイヌとの出会いである。ダニーは、もともとは医学部を志していたが、「五月革命」と呼ばれる1968年の学生ストライキの影響で入学試験が延期となり、なりゆきで醸造学部へ進路を変更していた。ミシェルとは対照的に、ダニーは成績優秀な秀才だったという。ふたりは恋に落ち、やがて結婚し、仕事の上でもパートナーとなる。

2. ラボ開設とコンサルタント開始

大学を1970年に卒業したミシェルとダニーは、間もなく結婚の誓いを交わした。1973年、夫妻はリブルヌに小さな醸造分析ラボを購入し、共同でビジネスをスタートさせる。

ワイン産地にある商業ラボの主な業務とは、地元の生産者たちが持ち込むワインのサンプルを化学的に分析し、酒質が健全で安定しているか、悪い微生物が繁殖していないか、原産地呼称(AOC)を名乗るために必要な、アルコール度数や揮発酸などの基準を満たしているかなどの確認であった。要するに、「欠陥がなく、売り物になるワインか」を判定する仕事である。

生成AIによるイメージ

しかし、活動的で現場を好むミシェルは、ラボの中に一日中閉じこもって、試験管や顕微鏡と向き合う作業を好まなかった。そこで、ラボでの精緻な分析業務はダニーに任せ、自分は車を運転して各シャトーを回り、ワインのサンプルを回収する役目を担うようになる。この夫婦間の分担が、ミシェルを単なる「分析技術者」から、現場で指導を行う「コンサルタント」へと変貌させるきっかけとなった。

サンプル回収のために、顧客である右岸の群小シャトーを訪れてみると、しばしば仕込み場がひどい状態だった。ミシェルはそこで、発酵温度を適切に管理するためのステンレスタンクの導入など、近代的な設備投資の必要性と、醸造の基本を生産者たちに説き始めた。ミシェルは、決して偉ぶった態度をとらなかった。持ち前の人懐っこさを発揮しつつ、冗談を交えながらワインを試飲し、造り手たちと語り合った。

このようにして、ミシェルは農家からの信頼を勝ち取り、顧客の数は右肩上がりで増えていった。専業の醸造コンサルタント、ミシェル・ロランの誕生である。とはいえ、ビジネス立ち上げ期の稼ぎ頭は、依然として妻ダニーが取り仕切るラボのほうだった。ミシェルが、ラボの上得意になってもらうための戦略として、あえて自身のコンサルティング料を無料にした例もある。「当時は、日曜日のミサで挨拶する人々の頼みを断ったり、報酬を要求したりする勇気がなかった」という本人の言葉通り、農村共同体の密な付き合いの中に、まだミシェルはいた。ダニーは、その後も長年にわたって、ラボと醸造機器・資材を販売する店舗を経営し、夫のビジネスを背後で支え続ける。

ただ、セラーが清潔になり、発酵の温度管理が導入されても、それだけで最高のボルドーワインができるようになったわけではない。1970年代のボルドー地方は、天候に恵まれない不作の年が多く、出来上がるワインは依然として青臭かったのだ。「なぜワインが劇的に良くならないのか」と、夫婦は自問自答を繰り返した。

その答えをはっきり示してくれたのが、歴史的なグレート・ヴィンテージとなった1982年である。この年のブドウはたっぷりと糖分を含み、タンニンも完熟していた。収量が非常に多かったにもかかわらず、出来上がったワインはまろやかで、驚くほどリッチになった。ミシェルはこのとき、セラーの中の設備や醸造条件は以前と変わっていないのだから、決定的な品質の違いを生み出したのは原料、すなわち「ブドウ果実」そのもののポテンシャルだという真理にたどり着いた。

1982の成功を、毎年再現するにはどうすればよいか。ミシェルの導き出した結論は極めてシンプルだった。あらゆる手段を講じて、ブドウを十分すぎるぐらいに熟させるようにする。当時のボルドーのブドウ畑では、収量過多が「ノーマル」で、秋雨を避けるため、果実は不必要に早く摘まれていた。ミシェルは、自らブドウ畑へと足を踏み入れ、「偉大なワインは偉大なブドウから始まる」のだと、生産者たちに説いて回るべきだと悟る。これが、後に世界中のワイン造りを変革する、ロラン流の出発点であった。

3. ミスター・メルロ

ミシェル・ロランを語る上では、黒ブドウ品種メルロの存在を抜きにはできない。キャリア後期のミシェルは、ボルドー品種ならなんでもござれの器用さを見せたが、はじまりはメルロだった。醸造コンサルタント、ミシェル・ロランの成功は、メルロというブドウ品種自体の成功と、軌を一にしているところがある。

今日でこそ、メルロは世界中で愛好され、確固たる地位を築くに至った。だが、ほんの50年ほど時を遡ると、メルロはボルドー左岸において「カベルネ・ソーヴィニョンの引き立て役」という捉え方をされていた。ボルドー右岸での主役はメルロだったが、右岸自体のワインに存在感がなかったから、当然メルロにも光は当たらない。左岸の高名なシャトー所有者たちの中には、メルロ主体のワインを「凡庸」だと見下す者もいた。

メルロの房と葉 ©Felloni claire

メルロの房と葉 ©Felloni claire

しかし、ミシェルの生まれ故郷である右岸のポムロールや、隣接するサンテミリオンのテロワールは、メルロにとってまさに理想的な環境であった。カベルネ・ソーヴィニョンよりも早熟なメルロは、秋の訪れが早い右岸の気候でも、その気になれば十分に完熟させられる(気温上昇が顕著になった今日では、右岸のメルロはむしろ過熟が問題になっている)。右岸に特徴的な保水性の高い粘土質土壌はまた、カベルネ・ソーヴィニョンよりもメルロの栽培に適していた。

ミシェルは、メルロの潜在能力を誰よりも深く理解し、極限まで引き出そうとした。徹底した収量制限と、ギリギリのタイミングまで収穫を遅らせる「遅摘み」が、そのイロハである。醸造所においては、厳格な温度管理のもとで長期間の果皮浸漬(マセラシオン)を行ったのち、新樽比率の高いオークの小樽にワインを移し、そこでマロラクティック発酵を行うという手法を確立した。カベルネと比べてメルロは線がやや細いので、新樽の使用はそれまでさほど一般的ではなかった。オーク臭くなるという批判も、地元の右岸ではずいぶん受けた。だがミシェルは、ブドウの熟度を上げ、風味が凝縮すれば、メルロでも高い新樽比率に耐え得るのだと、実証してみせたのである。

ミシェルが助言したワインはどれも、黒々とした濃い紫色をたたえ、噛めるほどの濃厚な果実の凝縮感と、なめらかでビロードのようなタンニン、なまめかしく甘美な樽の風味を備えていた。もともと、メルロはカベルネほどタンニンが強靱ではなく、酸味も穏やかな代わりに、果実味とアルコールが豊富で、柔らかい雰囲気の味わいになる。この特徴が、ミシェルの手にかかると、魅力として最大限に増幅された。峻厳な左岸のカベルネと比べ、メルロは若いうちから楽しめた。「若飲み可能」というメルロの特性が、世界最大のワイン市場に育ちつつあった、アメリカ国民の嗜好と一致していた点も有利に働いた。イギリス人が、購入したボルドーワインを数年、数十年と寝かしてから飲むのに対し、アメリカ人は買ってきたその日にコルクを抜くのがしばしばだ。ミシェルのワインには、商品としての競争力があった。

英国放送協会(BBC)が1995年に放映したテレビシリーズ番組、『Jancis Robinson’s Wine Course』は、現在YouTube上で全話無料公開されている。メルロをテーマにした回には、ミシェル・ロランが登場し、己の仕事について雄弁に語っている(上記動画の15分30秒から19分30秒付近)

1980年代後半から1990年代にかけては、ボルドー右岸のサンテミリオンおよびポムロールの地を舞台に、ガレージワインのムーヴメントが起きた。主役は、極少量生産、超高価格の豪奢なメルロで、新しい銘柄が雨後のタケノコよろしく次々に出現した。その多くに、ミシェル・ロランが関与している。イギリス随一のワイン評論家であるジャンシス・ロビンソンは1995年に放映されたテレビ番組で、ミシェルをメルロの王国における「王の主治医」と呼んだ。世界中のワイン業界人や愛好家たちは、畏敬と親しみを込めて「ミスター・メルロ」とミシェルを呼ぶようになった。名声がひとたび確立されると、ミシェルは単なる助言者という枠を超え、その名が強力なブランド価値を持つようになった。

4. ボルドーから世界へ

ミシェル・ロランの視線はやがて、ボルドー右岸から世界へと向けられるようになった。1980年代の後半から、フランス国外の顧客が現れ始めたのだ。それから10年ほど経ったころ、ミシェルは「フライング・ワインメーカー」という言葉の象徴になる。ミシェルの公式ウェブサイトには、2026年現在、コンサルティング業の顧客数について「14カ国150軒のワイナリー」という記述があるが、往時には20カ国230軒に到達していたという情報もある。ミシェルが1日に3軒回ったとして、無休で働くと単純計算で、年間1,095回の訪問だ。これを230のワイナリーで割ると、年に5回ほど、ミシェルがやってきてくれる計算になる。その年間5回だか4回だかの訪問・助言に対し、いくらの報酬をワイナリーが支払っていたかは、もちろん非公開だが、ざっくり100万ドルという数字を筆者はよく耳にした。それが事実なら、時間給も、年間総売上も、すさまじい金額になる。

フランス国外へと活動を広げる契機となったのは、1987年のアメリカ・カリフォルニア州への旅だった。ソノマにある名門ワイナリー、シミ(Simi)の醸造責任者であったゼルマ・ロング(Zelma Long)が、ボルドーで「一番腕利きの醸造家」を探し求め、ミシェルに白羽の矢を立てたのだ。当時はまだ、英語をほとんど話せなかったが、ふたりは協力して大きな成果をあげた。

もうひとつの重要なコンタクトは、同じく1987年にかかってきた一本の電話だった。当時、アメリカ市場への進出を狙っていたアルゼンチンのワイナリー、ボデガス・エチャルト(Bodegas Etchart)のオーナーが、スペインのマドリードからかけてきた。エチャルトは、アメリカの輸入業者から「ミシェル・ロランと契約したらワインを引き取ってやる」と、条件を付けられていた。ミシェルは当時スペイン語も話せず、「アルゼンチン人からの電話で、ワインの話をしていて、会いたいと言っていたが、それ以外は何も分からなかった」と、妻のダニーに伝えたという。それでも、南半球のアルゼンチンはヨーロッパと季節が逆で、ボルドーが農閑期となる冬の終わりに現地へと赴ける。翌年にアルゼンチンに向かったミシェルは、後年この国に自身のワイナリーを複数所有するに至る。

ロランのフランス国外における最大の功績のひとつとして特筆すべきは、アルゼンチンにおける黒ブドウ品種、マルベックの復活と国際的な名声の確立であろう。ボルドーでは、わずかに栽培される補助品種でしかないが、アルゼンチンとの好相性を見抜いたロランは、同地で絶大な力を発揮した。コンサルタントとして関わったトラピチェ(Trapiche)などの生産者に加え、ヤコチュヤ(Yacochuya)、クロ・デ・ロス・シエテ(Clos de los Siete)といったプロジェクトは、アルゼンチン産マルベックの品質を世に知らしめる契機となった。後述するが、自身のワイナリーも所有し、そこでもマルベックを手掛けた。

マルベックの房

マルベックの房 ©Ian L

1990年代後半以降は、ミシェルのもとに世界各国から、引きもきらず依頼がくるようになった。アメリカのナパ・ヴァレーでは、ハーラン・エステート(Harlan Estate)、スクリーミング・イーグル(Screaming Eagle)といった、「カルトの中のカルト」と呼ぶべきワイナリーに関わった。チリでは、大手カーサ・ラポストレ(Casa Lapostolle)が手がけるウルトラ・プレミム・ブランド、クロ・アパルタ(Clos Apalta)に手を貸し、南米産ワインの品質向上を力強く牽引した。これらのワイナリーでは、カベルネ・ソーヴィニョンが主力品種だが、「ロラン流」は立派に通用した。ヨーロッパに目を向ければ、イタリアのスーパータスカンとして名高い、オルネライア(Ornellaia)に助言したのが最も有名だろう。スペインでの活動も多岐にわたり、同国産ワインの「遅れてきた近代化」を加速させた。ミシェルの情熱は、伝統的なワイン生産国にとどまらず、モロッコ、インドといった国々にまで及んだ。

「どこへ行ってもロランの影」という遍在は、ミシェルが単なる技術指導者ではなかった事実を如実に示している。この男は、それぞれの土地が持つ固有のテロワールを読み解き、最適なブドウ品種を見出し、潜在能力を極限まで引き出せた。ボルドーで鍛えられた腕が、国境を越えて振るわれ、グローバルな品質向上という巨大なレガシーへとつながったのである。

5. ロバート・パーカーとのケミストリー

ミシェル・ロランのキャリアを語る上で、欠かせないのがアメリカ人のワイン評論家、ロバート・パーカーとのつながりである。ふたりの関係は、同志、タッグ、共生、共依存など、いろんな言葉で語りうる。

1982年7月、当時まだ無名のワイン評論家であったロバート・パーカーは、ロラン夫妻のラボの呼び鈴を鳴らした。試飲すべきワインを探してボルドーをうろついていたパーカーは、醸造コンサルタントを訪ねれば、しかるべきシャトーに予約をいれてくれるのではないかと考えたのだ。ミシェルが、「シャトーから預かっているサンプルなら、ここに沢山あるよ」と気さくに応じ、交友が始まった。同い年であったふたりはすぐに意気投合する。ともに気取らない性格、美味い料理に目がない大食漢で、一日に200種類以上のワインを試飲しても、感覚が麻痺しないタフな舌の持ち主だった。

ロバート・パーカー

ロバート・パーカー

1982年産ボルドーによって、世に出たのも共通している。この年の熟した果実風味は、パーカーの味覚に合致した。その評価によって、パーカーは一気に世界最高の影響力をもつワイン評論家へと上り詰め、「完熟こそすべて」という、ワイン界の新しいパラダイムを形成していく。

パーカーとミシェルの付き合いは、公私ともに非常に深くなっていった。パーカーがボルドーを訪れる際には、必ずミシェルの元に立ち寄り、ミシェルは車でパーカーを案内しながら、ブドウ栽培や醸造に関する専門知識を授けた。さらにミシェルは、自身がコンサルタントを務める将来有望な小規模ワイナリーを、次々とパーカーに紹介してやった。パーカーは、ミシェルが手掛けるスタイル——完熟したブドウを原料にし、新樽を贅沢に使い、清澄や濾過を極力避けた、まろやかで果実味にあふれる赤ワイン——をこよなく愛した。

パーカーが高得点を与えたワイナリーは、一夜にして名声と富を手にし、その結果、コンサルタントであるミシェルへの依頼が増える。そうしてできた新しい顧客のワインを、パーカーは多数のサンプルの中から優先的に評価し、激賞する。この無限ループは、ある種の錬金術であり、関わった者のすべてが得をした。新進気鋭のワイナリーにとって、「ミシェル・ロランへの依頼」は、「パーカーに確実に試飲してもらい、高得点を得るための近道」とみなされるようになったのである。ふたりの関係を、癒着と見るか、建設的なパートナーシップと捉えるかは、眺める者の立場によって変わるだろう。

ボルドーの守旧派、伝統主義者たちからは、強い反発を招いた。ミシェルを雇うのは、パーカーの点数を金で買うのに等しいという陰口が叩かれ、ミシェルのワインはどれも、パーカーの好みに迎合した画一的な代物に過ぎないと非難された。これに対してパーカーは、ミシェルが天賦の才に恵まれた凄腕の醸造家だと強調し、ワインが没個性的だという批判も一蹴した。ミシェルのアプローチこそが、テロワールと果実のポテンシャルを最大限に引き出すのだと、パーカーは擁護し続けたのである。

固い友情で結ばれていたふたりだが、パーカーの側は、プロの評論家としての一線を引こうとはしていた。たとえば、ロラン家が所有するシャトー・ル・ボン・パストゥールの1989年ヴィンテージに対し、パーカーは84〜85点という、偉大なヴィンテージらしからぬ低評価を下している。美味でないと感じたら、忖度はしなかったのだ。ミシェルは深く傷ついたが、時を置かずに再会した際、パーカーは「まだ私と口をきいてくれるかい?」と尋ね、関係が修復されたという。

6. 映画『モンドヴィーノ』でのバッシング

キャリアを通じ、賞賛と同じぐらいの量の非難にさらされ続けたミシェル・ロランだが、メディアによるバッシングとして最も痛烈だったのは、映画『モンドヴィーノ(Mondovino)』のそれだろう。アメリカ出身の映画監督、ジョナサン・ノシター(Jonathan Nossiter)が監督・撮影・編集を行なったドキュメンタリーで、2004年に公開された。ワイン界隈における当時の時代背景において、最も深刻な問題のひとつと考えられていた、「ワインのグローバリゼーション」の告発と批判を、テーマに据えた作品である。嗜好品についての記録映画だから、地球上の数億人が観たわけではないが、業界関係者やコアな愛好家たちのサークル内では大きな話題を呼んだ。

ノシターの手持ちカメラが捉えるのは、「世界中のワインの個性を潰し、均一化して金儲けをもくろむ資本家およびその尖兵たち」(悪役)と、「テロワールの守護者たる廉潔な造り手たち」(善玉)である。悪役陣営にキャスティングされたのは、ロバート・モンダヴィ(Robert Mondavi)とその息子たち、ロバート・パーカー、そしてミシェル・ロランである。中でも、ミシェルのステレオタイプ的「悪代官」ぶりは堂に入っていて、ギラギラした負のエネルギーがスクリーンの上でほとばしっている。運転手付きのメルセデスの後部座席にどかんと座り、携帯電話を片手に、どこの国にいるかもわからない顧客に指示を出す姿は、まさに悪しき資本主義の権化であった。

映画『モンドヴィーノ』のポスター

映画『モンドヴィーノ』のポスター

カメラに向かって愛想良く笑いかけるミシェルは、撮影時にはノシター監督から映画のテーマも告げられておらず、自分が大悪党として描かれるのだとはつゆ知らずだった。成功者として、肯定的に取上げてもらえると考えていたのである(だからこその笑顔なのだ)。ところが、出来上がったのは、真逆の悪印象を与える一連のシーンであり、それはノシターが悪意のある編集を行なった結果だった。公開直後にミシェルは、自分が意図的に貶められたと知り、激怒したと報じられている。しかし、それから20年近くが経った2023年、ミシェルは雑誌のインタヴューに答えて、次のように話した。「フランスの諺には、『良くも悪くも、話題になるのが肝心』というのがある。私にとってあの映画は、立派な成功だったさ」。同じインタヴューにおいて、「最高のワインとは、売れるワインだ」とも、ミシェルは語っている。この定義を、居直りと見るのは不当だろう。

映画には登場しないものの、この時代に流行語のごとく繰り返されていたフレーズがある。「どこの国で、どのブドウから造ったワインなのかは皆目わからないが、ミシェル・ロランが関わったのだけはわかる」。非難の言葉なのだが、実は両義的であり、「優れたワインには普遍性がある」という意味にも取れる。実際、20~30年前には、これとまったく同じフレーズが、最後を「エミール・ペイノー」にだけ変えて語られていた。

ロランは、自覚的な改革者だった。著書に記されている次の言葉は、とても印象的だ。「絶えず新しい何かがあるとき、人生は美しい。ワインも同じだよ。世界が終わるという予言からは、何も生まれない」

7. 神技的ブレンドの実践

ミシェル・ロランの基本的な醸造アプローチについては、先に述べた。健全で熟れたブドウを手にし、凝縮感が得られる仕込みを行ない、新樽に入れる。だが、これだけでは他人もマネができる。別のコンサルタントが、エピゴーネンとして安い値段で売り込みをかけるかもしれないし、顧客先のワイナリーから、「来年からは自分たちでできるので、もう大丈夫です」と言われるかもしれない。そうならないのは、ロランにはもうひとつの超能力、余人をもって代えがたい、試飲およびブレンド能力があったからだ。

除梗後のメルロ(ミシェル・ロランの顧客だったシャトー・キルヴァンにて)©Ryan O'Connell

除梗後のメルロ(ミシェル・ロランの顧客だったシャトー・キルヴァンにて)©Ryan O’Connell

2001年から2002年にかけて、ボルドー地方のワイン生産者たちを密着取材した、『ノーブル・ロット Noble Rot』という優れたノンフィクションがある(ウィリアム・エチクソン著、2004年刊行、邦訳『スキャンダラスなボルドーワイン』)。同書の中には、ミシェルが顧客のシャトー・ラスコンブ(Château Lascombes/ボルドー左岸の格付けシャトー)において、実際に試飲とブレンドを行なう姿が克明に記されている。当該箇所を引用してみよう。まずは、ミシェルがどのように試飲するかについて。

ラボから最初に上がってきたのは、不安な結果だった。分析結果では、タンニン量のレベルが低かった。出来上がったワインは果実味には富むが、ボディとストラクチャーを欠くのではないかと想像された。

「タンニンの数値が、たった110しかないんだ」と、レイノー(引用者注:当時のラスコンブの所有者のひとり)が告げる。良好な数値と言うには、少なくとも130が必要だった。

「実際のワインを見てみようじゃないか。試飲してみないことには分からないんだから」と、ロランは諌めた。

ラスコンブは大きなシャトーであり、新しいオーナーたちは個々の区画について、並以上の注意を払いながら研究を重ねてきた。個々の区画から造られたワインを試飲するために、大量のサンプルが用意されていた。試飲室には全部で46のグラスが、4列に並べられている。静寂が部屋を支配していた。10種類ほど試飲をこなしたあとで、ロランは小休止する。

「クリーンで、力強いじゃないか」と、ロランは判断を口にした。「嬉しい驚きだな」と、レイノーも言う。テイスターたちはメルロから、カベルネ・ソーヴィニョンおよびプティ・ヴェルドのサンプルに移った。まだ完全に「辛口」ではない、つまり、アルコール発酵が完了していないとベーヴ(引用者注:同じく当時の所有者のひとり)が注意する。

「25番は口あたりがちょっとばかし固いな。26番は少し苦い。だが、全般に果実味はいい具合で、口内での中盤も広がりも悪くない」とロラン。続いて、ルモンタージュの回数を1日3回に増やして、抽出プロセスを改良してはどうかと提案した。

「マルゴーらしさは感じるかい?」とヴァトロ(引用者注:同じく当時の所有者のひとり)が尋ねる。ヴァトロは、ワインをパーカー好みに仕立て上げ、テロワールを覆い隠してしまっていると批判されるのを強く恐れていた。「ああ。サンプルの間で違いがある。砂利質の土壌と、粘土質の土壌とで差があるんだ」と、ロランは述べた。(中略)

「タンニン量が少ないのはどう思った?」と、レイノーが尋ねた。「ストラクチャー不足になるだろうか。果実味があるのは分かっている。だが、ストラクチャーが十分じゃないと、ワインは熟成しない」。ロランは答える。「ちょっとばかり垢抜けないサンプルが2、3はあったが、特別ひどいわけじゃない。大事なのは試飲だよ。ラボの分析結果じゃない」

次は、ブレンドの様子を見てみよう。

醸造コンサルタントの中には、ブレンドはアルコール発酵の完了直後に行うべきだと信じる者もいたが、ロランは遅めにブレンドを行っている。区画別にワインの熟成具合を観察し、質の劣る樽は格下げをしては、考えうる最高の組み合わせを選ぶのである。「ワインを混ぜることに関しちゃ、ミシェルは最高権威なんだよ」と、アラン・レイノーは言う。(中略)

テーブルの上には、合計で46本のワインが置かれている。ロランは上着を脱いで、すぐに仕事に取りかかった。10本少々のサンプルを口にしたあと、ロランは化学実験に使う試験管と、手のひらサイズの安物の電卓を取り出した。そして、異なるロットのワインを少しずつ試験管に注ぎ入れながら、パーセンテージを計算し始めた。

年が明けて間もない頃に、ロランは、ラスコンブのメルロがリッチでフルボディだと気付いていた。今回は、後から収穫され発酵させられた、カベルネ・ソーヴィニョンとプティ・ヴェルドについて判断していた。下された評決は、楽観的な内容だった。「ベースとなるカベルネ・ソーヴィニョンは素晴らしく、プティ・ヴェルドもワクワクするような出来だ」。ロランの意見では、翌年の収穫では、品質を犠牲にせず生産量を最大5パーセント引き上げられるという。

ロランが次に取り組んだのは、異なる3品種をブレンドして、継ぎ目が見えないような全体を造り上げる仕事であった。「3番目のサンプルを3パーセント入れて、10番目を10パーセント足してみよう」と、ロランが指示する。「わかりました」と、従うベーヴ。「どうだ、とても科学的だろう?」と、ロランがふざける。「錬金術ですね」と、ベーヴは答えた。「化学のようには見えるかもしれないが、実際には感覚なんだよ」と、ロランは主張する。醸造コンサルタントは別のグラスを手に取り、試飲して、また指示をする。「15パーセント加えてくれ」。すぐに試験管は満杯になった。(中略)

ロランは電卓を叩き始め、ラスコンブのグラン・ヴァン(旗艦ワイン)として、このサンプルと同じブレンド比率のワインを大量に造れるかを計算しようとしていた。その口からは数字が漏れ始める。13番のメルロが554ヘクトリットル、カベルネ・ソーヴィニョンの70番が44ヘクトリットル……。最終のブレンド比率は、メルロ約40パーセント、カベルネ・ソーヴィニョン40パーセント、プティ・ヴェルド20パーセントにするつもりだった。数分間計算したのちに、ロランは顔をあげ、微笑みながらこう言った。「全部計算があったよ」

生成AIによるイメージ画像

生成AIによるイメージ

ざっとこんな具合である。このやり方ならば、現場に足を運ぶのが年に4、5回であっても、偉大なワインを創出できる。同時代のボルドー右岸で活躍した、もうひとりの辣腕コンサルタントであるステファン・ドゥルノンクール(Stéphane Derenoncourt)と、ミシェルの手法は対照的だった。ドゥルノンクールは、「自分が知っているブドウしかワインに出来ない」と語り、顧客のブドウ畑を丹念に調査した。一軒のシャトーに多くの時間を割き、一年を通じて高い頻度で訪問していた。どちらが良い悪いではなく、同じコンサルタントと名乗っていても、果たす役割が違うだけだ。

ミシェル・ロランが2012年に上梓した著書、『Le gourou du vin』。キャリア、ワイン造りの思想、パーカーとの関係、己に向けられた批判への反論などが、ストレートかつ情熱的、挑戦的に綴られている

ミシェル・ロランが2012年に上梓した著書、『Le gourou du vin』。キャリア、ワイン造りの思想、パーカーとの関係、己に向けられた批判への反論などが、ストレートかつ情熱的、挑戦的に綴られている

8. オーナーとして関わったワイナリー

ミシェル・ロランは、コンサルタント業の傍ら、自身もワイナリー・オーナーであり続けた。原点は、ポムロールにある生家のシャトー・ル・ボン・パストゥールである。祖父母が1920年に購入した蔵で、父が亡くなったあとの1979年に、ミシェルが兄のジャン・ダニエルとともに経営を引き継いだ。同時に、サンテミリオンのロラン・マイエ(Château Rolland-Maillet)、ラランド・ド・ポムロールのベルティノー・サン・ヴァンサン(Château Bertineau St. Vincent)という、一族所有の別シャトーの運営も任されている。1986年には、同じくボルドー右岸の地域であるフロンサックで、シャトー・フォントニル(Château Fontenil)を妻ダニーと共同名義で購入し、所有地をさらに拡大した。

シャトー・ボン・パストゥールのブドウ畑 ©Megan Mallen

シャトー・ボン・パストゥールのブドウ畑 ©Megan Mallen

ロランの所有欲と探求心はフランス国内に留まらず、やがて国境を越えていった。スペインにおいては2004年に、妻ダニーおよびボルドーの名門一族に属するリュルトン兄弟(François and Jacques Lurton)と共同で、トロ地域にカンポ・エリセオ(Campo Elíseo)を設立した。トロは、ロランが好む豊満で丸みのあるワインを造るのに非常に適した地域であった。さらに2010年からは、スペインワインの輸出スペシャリストであるハビエル・ガラレタ(Javier Galarreta)との間で、50パーセントずつの株式を持つジョイントベンチャー、ロラン・ガラレタ(Rolland Galarreta)を立ち上げている。このプロジェクトは、リオハとリベラ・デル・ドゥエロの両地域で始まり、のちにルエダやプリオラトといった別地域へと拡大していった。

アルゼンチンは前述の通り、ミシェルがおおいに情熱を傾けた国だった。まず1998年に、ボルドーの有力な共同経営者たち―シャトー・レオヴィル・ポワフェレ(Château Léoville Poyferré)の所有者ベルトラン・キュヴェリエ(Bertrand Cuvelier)、シャトー・クラーク(Château Clarke)の所有者バンジャマン・ロートシルト(Benjamin Rothschild)ら合計6名―とともに、アンデス山脈の麓に広大な土地を購入し、クロ・デ・ロス・シエテ(Clos de los Siete)という壮大なプロジェクトを立ち上げる。クロ・デ・ロス・シエテは面白い形態のワイナリーで、7名のオーナーがそれぞれ自分の畑を所有し、全員分のワインをブレンドしたブランド(クロ・デ・ロス・シエテ)の他に、各オーナーのブランドが存在する。ミシェルの所有畑からのブランドは、マリフロール(Mariflor)という名である。ロラン夫妻はほかにも、メンドーサ州ヴィスタ・フローレス地区にある高樹齢のマルベックの畑を、2001年に単独で購入し、ヴァル・デ・フローレス(Val de Flores)という名で展開している。

南アフリカでは、ボン・ヌーヴェル(Bonne Nouvelle)というプロジェクトを、現地パートナーとともに2001年に開始した。メルロ、カベルネ・ソーヴィニョンのほか、南アフリカの固有品種ピノタージュがブレンドされていたのが特徴だ。ただし、数年後には現地パートナーがミシェルの持ち分を買い取ったため、この地での関わりは短かった。

クロ・デ・ロス・シエテのボトル ©Clos de los Siete

クロ・デ・ロス・シエテのボトル ©Clos de los Siete

2013年、ロランは長年守り続けてきたボルドー地方の一族所有シャトー(ル・ボン・パストゥール、ロラン・マイエ、ベルティノー・サン・ヴァンサン)の過半数株式を、香港の企業グループのゴールディン(Goldin)に売却するという決断を下す。ただし、売却後も、醸造の監督役としては関わり続けた。夫妻で買った初めてのシャトー、フォントニルについては、引き続き手元に残した。

親から引き継いだ古いワイナリーと、自分で立ち上げた新しいワイナリー。ひとりの生産者として、実際の経営に携わり続けてきたからこそ、ミシェルは造り手の悩みが理解でき、的確な助言を与えられたのだろう。

9. 後進への継承と突然の逝去

超人的なスタミナをもつ仕事中毒人間でも、歳はとる。70代になったミシェルは、キャリアの終い支度を意識するようになった。2020年、「ラボラトワール・ロラン(Laboratoire Rolland)」の名称を「ロラン&アソシエ(Rolland & Associés)」に改め、長年助手として共に働いてくれたジャン・フィリップ・フォール(Jean-Philippe Fort)、ミカエル・レゼ(Mikaël Laizet)、ジュリアン・ヴィオー(Julien Viaud)の3人に、会社の過半数株式を譲渡した。同時に、ミシェルとダニーが所有するワイナリーの管理・運営については、夫妻の娘であるステファニー(Stéphanie)とマリー(Marie)が事業に参画し、夫妻の功績を未来へとつなぐ体制が整えられた。

とはいえ、ミシェルは完全にワインの世界から引退したわけではなかった。現場から完全に退くのではなく、親しい友人でもある長年のクライアント数社との仕事や、自身のプロジェクトに関わるテイスティングについては、その後も精力的に続けていたようだ。

しかし、別れの時は突然訪れた。2026年3月20日の早朝、ミシェル・ロランは心臓発作により突然この世を去った。享年78歳であった。

生成AIによるイメージ

訃報は、ロラン&アソシエの公式ソーシャルメディアを通じて世界中に発信された。「ミシェル・ロランが突然の心臓発作で亡くなったという、計り知れない悲しみをお知らせします」という言葉で始まるその声明には、ミシェルが亡くなる直前までエネルギーに満ちあふれ、新たな旅行の計画を立てていたと綴られている。「彼が自ら選び、愛したこの熱狂的な人生によって酷使されてきた心臓は、55年間にわたる容赦ない激務と、あらゆる緯度を越える旅を支え続けたのちに、ついにその鼓動を止めてしまいました」

10. 結び

希代の大人物であるのは間違いない。だが、悪役か、善玉なのかはまだわからない。ミネルヴァのふくろうは夕暮れに飛ぶ。もう少し待てば、ミシェル・ロランの仕事には評決が下るだろう。学問的な厳密性をもって検証するならば、ひとりの人間の生涯に白黒つけるなどありえないが、社会が抱く歴史意識の中ではそうではない。

それではなにが、リトマス試験紙になるのか。偉大なワインの定義はさまざまだが、「長い寿命をもつ」というのは誰もが賛同するポイントだろう。ロランが仕込み続けた赤ワインの数々は、数十年という長い時の試練に耐えるかどうか。「どれも同じ味」と腐されたワインたちが、熟成とともにテロワールの調べを奏で始めるのか。顧客であるワイナリーの人々は、ミシェルを好いていたようだ。『モンドヴィーノ』で描かれたような悪漢として、彼を非難する声は関係者からは聞こえてこない。消費者も、ミシェルのワインも好んだ。その言葉は、「売れるワインこそ最高のワイン」だったが、最高のワインだからこそ売れたのか。本人がいなくなっても、ワインは残る。質問の答えは、ほどなく出るだろう。


【主要参考文献】

豊かな人生を、ワインとともに

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