連載コラム

連載コラム:伊東道生の『<頭>で飲むワイン 』 Vol.03 2011.06.24

ロマネ・コンティを、どうやって分配するか

皆さんご存じの通り、古代ギリシア・ローマでは、今とは異なるタイプでしたが、ワインは盛んに飲まれていました。一方、それより古い古代メソポタミアやエジプト文明での主役は、むしろビールです。なんと紀元前4000年までには、近東一体に広まっていたそうです。もっともワインの製造は新石器時代に遡りますが。人類は、アルコール飲料の製造には、いろいろと工夫をしてきましたが、メソポタミアでは、パンの発酵とビールの発酵は抱き合わせだったようです。
遺跡や遺物に見られる絵文字でからすると、メソポタミアではビールをストローで飲むというのが一般的慣習でした。これは、それなりにいい方法です。ワインでも、ボトルの上の方と、底では味が違うので、何人かで飲むときは、不公平が生じますが、一つの瓶からストローで飲めば、そういう不公平感もないですし。もちろん、同じ器から飲む一体感も生まれます。あまりワインをストローで飲む気にはなれませんが。
メソポタミアにワインがなかったかと言えば、そうではなく、ワインは希少で、高価なものでした。というのも、山間部の生産地から首都まで輸送しなければならず、ビールの10倍の値段がしました。そのため、ワインへの憧れが強く、王様の一人は、ワインを「わが国にはない山間部の、絶品ビール」と絶賛したくらいです。(トム・スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』)

ところで、メソポタミア文明で有名なものの一つに「ハンムラビ法典」があります。紀元前18世紀にバビロンの王様によって、作られ、現物は、玄武岩に楔形文字などで記されています。現在はルーブル美術館にあります。
この「ハンムラビ法典」で一番有名な文句が「眼には眼を、歯には歯を」です。あくまで法律なので、復讐というよりも、人から損害を受けたら、それに見合ったものを補償しましょう、という相身互いの考えを表明したものと理解した方がいいでしょう。ちょっと難しい言葉でいうと、「互酬性(ごしゅうせい)」と言います。私が困っていたら、人に助けてもらうことを期待するけれど、人が困っていれば、私も助けてあげる、という仕組みが、社会に備わっていればいいというのが、その精神です。

宴会に出たDRCのエシェゾーを、私も飲みたいし、あの人も飲みたいだろうし、と相手の身になって考えることも、そうです。新約聖書のマタイ伝にも「あなたが、人からして欲しいと思うことを人にもしなさい」という言葉があるようです。人類は、昔からこういう考えをもっていたようです。

でも、DRCのエシェゾーならいいけど、ニューワールドのめちゃ濃いピノノワールのときは、ちょっと困ります。「あの人は飲みたそうだけど、私は飲みたくない。」ところが、相手の方では、「私が飲みたいから、あの人も飲みたいだろう、あの人にもたくさんついであげよう」と、自分のグラスになみなみつがれてしまいます。こうなると、「あなたが、人からして欲しいと思うことを人にもしなさい」というのは単なるお節介になります。ほっといてくれ、と文句も言いたくなります。

方針を変えて、「あなたがして欲しくないことを、人にはするな」とすると、どうなるでしょう。私は、ニューワールドのピノノワールは欲しくない。だから、人にも勧めない。それで、宴会には、ニューワールドのピノノワールをださず、今度は、相手に嫌われてしまうかもしれません。どっちにしろ、自分の趣味を単純に押しつけているだけのようです。自分の趣味は、人には押しつけず、それでいて、相身互いになる方法はないのでしょうか。相手の身になるというのは、なかなか難しい・・。

資源に限りがある場合、私たちは、それをどうやって分配するか、ということにいつも頭を悩ませます。これですべてうまくいくわけではありませんが、思いやりも、それなりの手段です。問題は、思いやりという感情的なものを、どうやって考えるべきか、ということです。

今、予算がなくて、エシェゾーのハーフを一本しか、出せないとします。それを二人で飲むとき、どうやって分けましょう。相手が、ニューワールド好きで、エシェゾーに、それほど興味がないことが、事前に分かっていれば、自分のグラスに少し多めにつぐこともあるでしょう。でも、相手の趣味が分かっていないときは、どうしましょう。大抵は、同じ量だけをほぼ平等につぐでしょう。でも、まったく平等というわけにはなかなかいきません。澱がはいってしまうこともあるかもしれませんし。ストローで飲むのも、公平ということからすると、それなりです。でも、この方法は、おいておきましょう。

二人をIさんとTさんにします。Tさんがワインをつぎ、Iさんが、先にグラスをとり、Tさんは、その後で取ることにする。そうすると、均等に分割するだろう。というのが、一つの答えです。「手続きとしての正義」といいます。正義とは、公平のことで、必ずしも平等とは限りません。相手の趣味がわかっていて、不平等に分けても、互いに納得していれば、公平です。具体的な趣味や財産をとりあえず、脇に置いておいて、公平な分配を考えたら、それなりの利益や困ったことを考慮した行動をとるだろう、というわけです。

これを、社会のレベルで考えるとどうなるでしょう。
理想的とはいかないまでも、それなりに暮らしやすい社会とはどういうものか、そのためには、お互いにどういうことを認め合ったらいいのか、思考実験をします。
まず、みんな自由と権利を、互いに認め、個人に抑圧的な社会は、やめようという合意はできそうです。私はDRCを飲む自由はあるし、あなたがニューワールドのピノを飲む自由も認めましょう、というものです。では、社会をつくるのに、それだけでいいでしょうか。
ひょっとすると、災害にあったり、リストラされたり、身近に重病人が発生して、困ったことがおきるかもしれません。もうワインが飲めなくなったりするかもしれません。人を当てにするのもイマイチ不安です。保険といっても、保険会社がつぶれる可能性もあります。そういう場合を考えると、困ったときに助けてくれる仕組みが、社会に備わっている、とくに政策として制度化されている、といいのではないか。これについてもみんなで合意しましょう。こうして、慈愛の精神とかではなく、理論として「福祉」を捉えたのが、ロールズJ.Rawlsという人です。クリントン元大統領も習った大御所です。

こうした考えに反対した人がいます。一人は、R.ノージックという人です。彼は、個人の自由だけでいい、それ以上のことは、お節介だ。資源の分配も、マーケットに任せればいい。政府が、福祉という別な資源配分をして、口出しするのは自由競争を阻害する、と主張します。言ってみれば、民営化路線で押し切ろう、というスタンスです。困ったときは、ヴォランティアで、乗り切ればいい、というわけです。

もう一人、ロールズに反対した人がいます。例の「ハーバード大学白熱教室」でもおなじみのM.サンデルさんです。彼は、個人の自由を基本とした考えに待ったをかけます。個人といっても、実際は、言語や文化、歴史といった、それなりの価値を背負った状況下で生きている。市場にしろ、福祉にしろ、そこで分配される資源は、価格のような<数>で抽象的に処理できるものもあるが、<意味>のあるものもあり、そうしたものは、それなりの分配の仕方が必要だと考えます。

ある素封家の家から、バイオリンの名器であるストラディヴァリウスが、見つかったとします。どうやって、そして誰に、これを与えたらいいでしょう。オークションに出展して、何億ものお金を払った人に渡しますか。それも一案ですが、サンデルさんの提案は、ストラディヴァリウスには、それなりの価値があり、その価値を引き出してくれる、名演奏家に渡すべきだ、というものです。そして、私たちは、名演奏家の奏でるストラディヴァリウスに、聞き惚れる、というわけです。

同じ素封家の蔵から、フィロキセラ以前のラトゥールが6本出てきたとします。これはどうやって分けましょう。オークションに出す? 中国人が買い占めそう。上限価格を決めて、くじ引き? しゃくぜんとしませんねえ。では、ワインの価値をしっかり鑑定できる人に、優先的に渡す? でも、ロバート・パーカーに渡すのは悔しいし、彼の批評を聞いても、ちっとも嬉しくない。いっそのこと、ラトゥールに引き取ってもらい、博物館にでも置きましょうか。未来の人への贈り物として。

では、問題です。年間6000本しかつくられない、ロマネ・コンティを、ワイン愛好家の社会に、どうやって分配したら、公平でしょうか。市場に出す以外に、みんなが、「なるほど」と思い、かつ比較的多くの愛好家がありつける方法はあるでしょうか。何しろ、1989年のゴー・ミヨのワイン本に「彼女は日本に叩き売られずにすんだ!」と評されたくらいです。ロマネ・コンティは「フランス的価値」を体現しています。そうすると、フランス人の間でしか分配はできなくなる?