連載コラム

連載コラム:伊東道生の『<頭>で飲むワイン 』 Vol.81 2018.03.09

~シャンパーニュ ポル・ロジェ話題~

日本では意外に人気がイマイチなシャンパーニュの大手メゾンの一つに、ポル・ロジェがあります。キュベ・ウィンストン・チャーチルがあるように、イギリスではかなり人気があります。ロイヤル・ファミリーの結婚式にも使われます。人気で言えば、ボランジェと双璧です。このメゾンからニュースが入ってきました。 2018年2月14日付けです―118年後、夢が叶う・・・2018年1月15日、1900年に一部が崩壊していた古い歴史的セラーの上に新しい施設を建設中、埋もれていたビンを発見。

ポル・ロジェのオフィシャルサイトでは、カーヴ崩落後から換算して118年前としていますが、RVF誌では1889年から1898年の間に収穫されたブドウの可能性があり、シャンパーニュ自体は129年前ともしています。見つかったのは19本。土の中に埋まっていたようです。
ビンの状態は、RVFのウェブサイトでご覧ください。

RVF誌によると、1900年2月23日、エペルネは厳しい寒さと激しい雨に襲われました。そのときポル・ロジェの創始者の息子である、モーリスとジョルジュ・ロジェは自社のカーヴが崩壊するのを目撃しました。この模様も上のサイトに写真があります。なかなかすさまじい光景です。

1900年2月28日のVigneron Champenois紙は、巨大なセラーの一部と、それと併設している建物が崩壊し、大きな被害に及んだ。ワイン樽500と150万本のビンが損なわれた、報じています。もったいなあ。

118年後、カーヴ責任者Dominique Petitと生産統括者Damien Cambresは、上記の事故で破損したおびただしいガラス片の中に手つかずのビンが残っていることを発見しました。これを受けてさらに探索したところ、19本のビンを発見しました。

この19本は、どうなるのでしょうね。古いシャンパーニュと言えば、例のUボートに沈められた沈没船の1907年のエドシック・モノポールがありますが、これと同じく、当時のポル・ロジェも甘かったのでしょうかね。エドシックはかすかな泡がまだ一筋二筋残っていました。エドシックはバルト海底で温度変化もなく良好な状態であったと思われますが、こちらは土とガラスに埋もれていたという条件の違いがあります。これはどうでしょう。ポル・ロジェの発表では、「これらのビンは保存状態がきわめてよく、ワインは光り輝き、液面もよく、コルク栓もしっかり閉まっている」と、よいみたいですが。それにしても、その19本は誰が飲むのでしょう。うらやましい・・・

シャンパーニュの元になったワインが1889年から1898年、カーヴの崩壊が1900年、まさに世紀末、ベル・エポックの時代-シャンパーニュが滝のごとく消費された時代です。当時、最も有名だったレストランのマキシムは「シャンパーニュの聖堂」とまで呼ばれました。口の開いたクープと呼ばれるグラスで飲むのが普通で、女性のハイヒールでシャンパーニュを飲むなどというふざけた趣味もありました。

『シャンパン歴史物語』(白水社)によると、1848年にバーンズというイギリスの商人が辛口シャンパーニュをつくってみないかと誘ったところ、フランスのメゾンはこぞって即座に断ったそうです。それは市場が甘口志向というだけでなく、コストとリスク面からも、辛口よりも簡単な技法という面からも問題があり、そして未熟なブドウによる酸味過多をごまかすために、シロップや砂糖をぶち込んで甘口シャンパーニュをつくっていたという理由もありました。シャンパーニュは現在よりも劣悪なブドウからつくられていたわけです。  

マダム・ポメリーは1860年代に辛口の試作を始めています。これは一般には不評でした。けれども世紀最高のビンテージとされた1874年のシャンパーニュはすこぶる評判が良く、『ポメリー1874年への頌歌』と称する歌まで生まれました。ポメリー社のサイトにも「ポメリーが1874年にブリュットを発明した」と記されています。ルイーズは1890年3月18日に亡くなります。彼女の葬儀は、政府関係者も出席し、国葬並みでした。1871年普仏戦争でフランスを征服したプロシア宰相ビスマルクも、ドイツのゼクトよりシャンパーニュを好み、「私の愛国心は胃のところで止まっております」と言ったとか。

この時代は、産業革命が進行し、万博の時代でもありました。1878年から1900年の間に万博が三回開かれ、世界中の人がパリに引き寄せられます。エッフェル塔は1889年の建設ですし、1885年のボルドー・ワイン格付けもありました。ワイン自体の商品性が一挙に加速します。当時、万博を利用して売り出したのは、いまはLVMHグループ傘下にあるメルシエです。1980年代、私がパリにいた頃、メルシエのシャンパーニュは日常的というか、とにかく何でもいいからシャンパーニュと名のつくモノを飲みたいという時は、これ、という感じで扱われていた気がします。要するに、美味しくないシャンパーニュの代名詞でした。今は、そうでもない・・・?

メルシエは1889年の万博では、24頭の白い牝牛に20万本のシャンパーニュがつまった世界最大の樽-製作に16年かかりました-を引かせて、会場に現れました。万博は宣伝のための最高の場所だったのです。1890年の万博では多くのメゾンが独自のパビリオンを設営したそうです。メルシエは、この万博では熱気球に12人の客を乗せ、シャンパーニュと軽食を楽しみながら、パリ眺望をエンジョイする趣向を催しました。あいにく天候が悪く気球はベルギーにまで運ばれるという惨事になりましたが、宣伝には絶好でした。類推するに、おそらくこうして売られたのは甘口で、辛口はかなり高価でした。ともかく、こうして現在、辛口シャンパーニュを楽しめるのは、リスクをモノともしなかったルイーズのおかげです。

甘口はドゥーdouxで50グラム以上の残留砂糖です。ブリュットのみならず、エクストラ・ブリュットやノン・ドゼに親しみ、一桁以下のものしか経験していない我々には砂糖水にサイダーにアルコールを放り込んだようなものです。33グラム以上のドゥミ・セックでさえもかなり甘く感じますからね。ドゥミ・セックを飲んだのは、10年くらい前でしょうか。ましてドゥーとなると記憶にありません。ドゥミ・セックはまだそれなりに生産していますが、ドゥーはどうでしょう。ネットで少し調べたら、ビオのシャンパーニュで有名なジャック・ボーフォールが作っていました。年間生産量3万本のうち、10%をドゥーに当てているという、こだわり派?砂糖ではなく濃縮果汁でドサージュをしています。アカデミー・デュ・ヴァンでシャンパーニュ・ドゥーの講座をしてみてはどうでしょう。6杯とか飲めるかなあ。3杯くらいで、ギブアップするかも。

さて現代のポル・ロジェです。

6年前になりますが、RVF誌が五代目当主のHubert de Billyにインタビューしたことがあります。(2012年10月565号)意外なことにポル・ロジェは60年代まで自社畑を持っていなかったそうです。自社畑が50%になったのは、父のクリスチアンの時代になってから。当然の結果と言うべきか、それまではネゴシアンとしての働きが重要であった、と述べています。カーヴの崩壊を経験したモーリス(二代目)は「葡萄は栽培家のもの、ワインはネゴシアンのもの」と言う格言を残しています。ボルドーではシャトー元詰めの習慣が60年代から出てきて、ネゴシアンの役割が減ってきており―ネゴシアンによる不正もあったし、ペトリュスでも異なるエチケットの場合もありました―、もっとネゴシアンの役割を見直すべきだ、という趣旨の発言をしています。またイギリス市場を意識してシャルドネよりもピノ・ノワールを重視してきたが、時代に伴いシャルドネやムーニエの比率が多くなってきた、フルボディよりもミディアムボディへと変化していたとも言っています。そう言えば、ウインストン・チャーチルも幾分軽めになったような・・気のせいかもしれませんが。

以前、RVF誌ではメゾンの格付けを行ったことがあります。(2013-2014,577号)

1位はルイ・ロデレール―シャンパーニュのエルメスと称されました―、ポル・ロジェは品質の精度と端正さ、ブレのなさを評価され2位でした。エレガントな泡のメトロノームなどというご大層な文句も付けられています。ちなみに3位はボランジェ、4位はゴセ、5位はドンペリ(モエとは分けて紹介されています)。また、先に挙げたメルシエは48位で、「民主的シャンパーニュLe champagne démocratique」と。創始者のユージーン・メルシエは農民の息子で、シャンパーニュをブルジョワに対抗し、民主的にしようとした、と現在のエマニュエル・メルシエが語っています。なるほど・・・。

さて、2017年、シャンパーニュは世界で49億ユーロの売り上げで新記録となりました。記録は年々続いていて、2015年と2016年は47億ユーロでした。さて、ビン何本分と思いますか。

答えは3億730万本です。

私は何本飲んだでしょう。150本はいっているかな。