連載コラム

連載コラム:伊東道生の『<頭>で飲むワイン 』 Vol.12 2012.04.23

私が見ているワインの「赤色」と、あなたが見ている「赤色」は同じ?

昔、二人の者が呼ばれて、大樽に入ったワインについて意見を求められた。まず、一人が味見をし、こう言う。このワインはいいが、ちょっとした皮の味がある、と。一方、もう一人は、やはりいいワインだが、鉄の味がする、と言う。二人の判断に皆が大笑いしたが、ワインの樽を空にしてみると、そこに、細い革ひものついた古い鍵が見つかった。
 
皆さんご存じの『ドン・キホーテ』にでてくる話です。実は、前回に挙げたヒューム(David Hume)という18世紀のイギリスの人が書いた「趣味の基準について」という論文のなかに載っています。

同じワインを二人で飲んでいて、感想や批評を話し合うとき、「その通り」と意見が合う場合もあれば、「それは違うのでは?」と意見が異なるときが、よくあります。これが、もう少し極端になると、色合いを表現する言葉が、自分が思っているよりも妙に黄色や茶色がかって表現されたり、甘さと酸味のかね合いについて、自分が飲んだときとは、違う表現されたりするときも、ままありますね。本当に同じワインを飲んでいるのかなと、ふと思うこともあるかもしれません。権威あるソムリエさんの表現には、それと違う自分の感想を、つい引っ込めてしまってしまいがちですが。

先の『ドン・キホーテ』の話は、意見が異なるとはいえ、革ひも付きの鍵のどちらを、強調しているかだけで、やはり同じワインの評価をしている、と言っていいのでしょうか。難しいところです。また、評価や表現が異なっていても、互いのグラスを替えてみたら、「あらまあ、これは私のとは違う。なるほど。」ということも、日常では、ありますね。

古くからある哲学の問題に、私が見ている赤色と、あなたが見ている赤色は、本当に同じものなのか。同じ色を指して、私もあなたも、赤色と言っているのでしょうか、という問題があります。同じワインの色を仮に、「紫がかった赤色」と、意見が一致したとしても、私が見ている、その「紫がかった赤色」と、相手が見ている「紫がかった赤色」は、本当に同じ「紫がかった赤色」なのでしょうか、ということです。

この問題は、科学の力を借りて解決できるでしょうか。「紫がかった赤色」を見ているときは、脳神経系のどこそこが反応する、というように、色と刺激が、事細かく対応しているのかもしれませんが、刺激のされ方自体が、人によって違うかもしれません。刺激を受けることと、その色を見ていることを、そのように対応させていいのかどうかも、疑問です。言い換えると、感覚それ自体は、互いにその場で、直接に比較しようがない、ということです。つまり、同じとも言えるし、違うとも言える。科学では、答えられないので、哲学の問題になります。(私は、脳神経学者でもないので、他の説明の仕方があるのかもしれませんが。)

この問題は、私と誰か他人だけに限られたことではありません。私がある時刻で見た「あか」と別の時刻で見た同じワインの「赤」が同じだ、と言えるのか、ということにもなります。今の感覚と、過去の感覚を並べて比較できないので、過去の私の感覚を再認するために記憶とか想像力に頼るわけで、これも完全な保証にはなりません。

ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)という哲学者は、これは、問題設定自体が、おかしいと考えます。
「痛さ」という感覚を考えてみましょう。
「人の痛みを知れ」といっても、実際に「人の痛み」というのは、直接にはわからないので、想像するしかないわけです。私の痛みは、他の人にはわからない。私の痛さとあなたの痛さを比べることはできない。でも、ヴィトゲンシュタインは、こう言います。「子供が怪我をした。子供は泣く。すると大人は彼を慰め、彼に感嘆詞を教え、後で文を教える、彼らは子供に新しい痛みの振る舞いを教える」(『哲学探究』)。感覚することと言葉を覚えて、使うことは同じ行為の中身なのだ、と言うのです。つまり、
 (1)「痛い」という言葉は、痛いという経験とともに学ぶ。
 (2)「痛い」という言葉を出すことは、痛みの経験の一部を構成している。 だから、
 (3)「痛み」という私的な個人的な感覚について、「痛い」という言葉があるのではない。

なかなか、難しいですね。
痛さの経験をする、「痛い」と感じるときに、「痛い」という言葉を使うことを覚える。それと同じで、「赤」という言葉は、赤い色を見たときに、それを「赤」と呼ぶように学習し、しかも、赤い色を経験する一部に、「赤い」と発言する行為があって、それが互いにキャッチボールされて理解されていく、というのです。
「赤いものをもってきて」と言うと、相手が「赤い物」をもってくる。それを見ている私は、「赤い物」が最初は、なんだかわからないが、しばらく見ていると、「赤い物」とは、こういうものだとわかってくる。ああ、これが「赤」という言葉の使い方だと、やりとりをするなかで学習していくというのです。
「赤い」色を経験するということの中には、「赤い」という言葉の使いかたを学んだり、その言葉を使ってコミュニケーションしたりすることが含まれている。だから、「赤」という言葉が、そう言う経験とは別に何か得体の知れない概念として存在して、さらに、その概念は、各人バラバラの「私的な赤い経験」を指す、というのはおかしい、となります。
だから、私が見ている「赤色」と、相手が見ている「赤色」は、本当に同じ「紫がかった赤色」なのでしょうか、というのは問題設定がおかしく、同じ「赤い」という言葉が交わされて、コミュニケーションがうまくいっているなら、同じように赤い色を見る経験をしているのだ、ということです。
なんだか、狐につままれたような解答ですね。