名言で嗜むワインvol.2 ~「シャンベルタンは未来をバラ色に見せる」― ナポレオン・ボナパルト

ワインを嗜むとは、杯に満ちた液体を言葉にする営みだ。香りや味という不定形な存在に、言語で輪郭線を描き、さまざまな色のシニフィアンで内側を埋める。ふさわしい言魂を得たワインは、空を自由に飛翔したり、人の世の本質という的を射抜いたりもする。

過去1万年に及ぶ歴史のなかで、多くの著名人がワインを言葉にしてきた。加えて、詠み人知らずでも、琴線をつかむ歌がある。本シリーズの記事では、そうした「言葉のワイン遺産」に光を当て、発した者について、時代背景、何を描きたかったなどを考察する。

本記事では、フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトが遺したとされる、ブルゴーニュとシャンパーニュについてのふたつの名言について、深く掘っていこう。

本記事は、ワインスクール「アカデミー・デュ・ヴァン」が監修しています。ワインを通じて人生が豊かになるよう、ワインのコラムをお届けしています。メールマガジン登録で最新の有料記事が無料で閲覧できます。


【目次】
1. ナポレオン・ボナパルトについて
2. ナポレオンとワインの関わり
 ● シャンベルタン
 ● シャンパーニュ
 ● コンスタンシア
3. 名言の考察
4. ナポレオンがワイン界に与えた現実の影響
 ● ナポレオン法典
 ● ナポレオンが招いたワイン貿易の変容
5. 甥っ子ナポレオン三世
6. まとめ


1. ナポレオン・ボナパルトについて

ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769-1821年)、あるいはナポレオン一世は、18世紀末から19世紀はじめにかけて活躍したフランスの軍人、革命家、為政者、皇帝である。51歳という決して長くはない生涯の中で、巨大な足跡をヨーロッパに残した。聖人君子ではなかったものの、多くのフランス国民から、今も英雄視されている。近代最高の軍事的天才として名高いが、政治家としても、ナポレオン法典を制定するなど偉大な仕事をした。

生まれは、地中海に浮かぶコルシカ島のアジャクシオで、12人兄弟の4番目だった。若くしてフランス本土に渡り、オータン、ブリアンヌ、パリの陸軍士官学校で教育を受け、砲兵将校となる。1789 年にフランス革命が勃発すると、ナポレオンはその混乱の中で急速に頭角を現す。1793年のトゥーロン攻囲戦における功績で、24歳にして将軍に昇進し、1795 年のヴァンデミエールの反乱を鎮圧し、国内での名声を確立した。その後のイタリア遠征(1796-1797年)およびエジプト遠征(1798-1799年)で、並ぶ者のない軍人としての評価を不動にし、1799年のブリュメール18 日のクーデターによって第一執政に就任、フランスにおける事実上の最高権力者となった。このとき、ナポレオンはまだ30歳である。片田舎出身の市民兵が、腕一本で国の頂点に立つというその経歴は、フランス革命の理想を体現していた。「革命の守護神」として、ナポレオンは国民に崇めたてられるようになる。

『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』(ダヴィッド画)。「革命の守護神」たるナポレオンを象徴する絵画

『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』(ダヴィッド画)。「革命の守護神」たるナポレオンを象徴する絵画

そのうねりの中で1804 年、国民投票を経て、ナポレオンは「フランス人民の皇帝」に即位する(ナポレオン一世)。同時代の作曲家ベートーヴェンが、王様となった革命家に激怒・落胆し、捧げるつもりで書いた交響曲第三番の名前を、「ボナパルト」から「エロイカ」(イタリア語で「英雄」の意味)に変えたのは有名な逸話だ。それでも、ナポレオンの勢いは止まらない。アウステルリッツの戦い(1805 年)、イエナ・アウエルシュタットの戦い(1806 年)、ヴァグラムの戦い(1809年)など一連のナポレオン戦争に勝利し、ヨーロッパ大陸の覇権を握った。栄華はここに極まる。

『ナポレオンの戴冠式』(ダヴィッド画)。1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂にて

『ナポレオンの戴冠式』(ダヴィッド画)。1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂にて

しかし、1812年のロシア遠征の壊滅的失敗が転機となり、英雄の未来には暗雲が立ちこめ始める。1813年のライプツィヒの戦いで、対仏大同盟の連合国軍に敗北、パリが陥落し、1814年に退位を余儀なくされた。王位を奪われたナポレオンは、地中海に浮かぶエルバ島へと追放される。フランス本土では、革命前にフランスを支配していたブルボン家が復活、ルイ18世が国王として即位した(王政復古)。ナポレオンは1815年、エルバ島を脱出しパリに帰還、権力を一時的に回復するが(百日天下)、同年6月のワーテルローの戦いで連合国軍に決定的敗北を喫する。最終的にイギリス軍に投降したナポレオンは、南大西洋の孤島セント・ヘレナに幽閉され、1821年5月5日、同地で51歳の生涯を閉じた。

『ワーテルローの戦い』(ヤン・ウィレム・ピエネマン画)

『ワーテルローの戦い』(ヤン・ウィレム・ピエネマン画)

2. ナポレオンとワインの関わり

コルシカ島アジャクシオに生まれたナポレオンは、地元のワインに親しんでいたのだろうか。信頼のおける文献には、そういった記述は見当たらない。ナポレオンが、シャンパーニュ地方にあったブリエンヌ陸軍幼年学校へ、国費で入学したのは10歳のときだ。したがって、地元で暮らした頃は、本格的な飲酒をする年齢ではなかった。もちろん、食卓で両親から、水で割ったワインを与えられていたかもしれないが(当時のイタリアやフランスでは一般的な習慣だった)、さだかではない。

長じてからのナポレオンは、飲み手として三つのワインに深く関わった。ブルゴーニュ地方の銘酒シャンベルタン、シャンパーニュ、そして南アフリカ産の甘口白ワイン、コンスタンシアである。まずは、ナポレオンがどのように、これらの高級ワインと接していたかを見ていこう。

なお、ナポレオンはいわゆる美食家ではなかった。複数の歴史的証言が、この英雄が食事にほとんど関心を示さず、飲食する時間も極めて短かったと伝えている。夕餉の食卓で過ごすのは15分に満たず、飲むワインの量も限られていた。ナポレオン研究の権威であるイギリスのマイケル・ブロアーズ教授は、ナポレオンのこの節制が昔日のイタリアの文化的背景に根差しており、「アルコールの影響下にある姿を見られるのは、恥ずべき事態」という価値観を持っていたためだと指摘している(コルシカ島は、ナポレオンの生誕直前まで、ジェノヴァ共和国の領土だった)。

シャンベルタン

ナポレオンが若い時分に出逢い、15年という長きに渡って飲み続けたのが、ブルゴーニュの銘醸赤、シャンベルタンだった。今日、シャンベルタンがもつ雄々しいイメージには、「ナポレオンが好んだ酒」という史実も貢献しているように思われる。1788年にナポレオンは、砲兵将校としてコート・ドール県のオソンヌに駐屯し、そこでシャンベルタンを知った。ナポレオンの第一侍従であったコンスタンの回想録が、この習慣に関する最も信頼できる一次資料である。コンスタンは、「皇帝はシャンベルタンしか飲まず、それも滅多に純粋なままでは飲まなかった」と、明確に証言している。「純粋なまま」とは、ワインをそのままで、という意味で、つまりナポレオンはシャンベルタンを水で割って飲んでいたのだ。若いうちから慢性胃炎だったため、アルコールの刺激や酸味を和らげるため、水で薄める必要があった(ナポレオンの死因は、胃癌だったと高い確度で推定されている)。

シャンベルタンのブドウ畑

シャンベルタンのブドウ畑

好んで飲んだシャンベルタンだが、その消費量は厳格に管理されており、毎日、昼食と夕食にそれぞれボトル半分(500ml)が決まりだった。シャンベルタンは、ナポレオンのあらゆる軍事行動に同行した。1798年からのエジプト遠征にも、1812年のロシア遠征にも、ケースで運ばれた。ロシアの厳寒の中、侍従が懐にボトルを抱えて体温でワインを温め、いつでも供せるようにしていたという逸話も残っている。

シャンパーニュ

ナポレオンはシャンパーニュともゆかりが深かったが、シャンベルタンやコンスタンシアへの個人的愛着に比べると、実務的、政治的、あるいは儀礼的な関係だった。マイケル・ブロアーズ教授によれば、ナポレオンはワインとしてのシャンパーニュが好みではなく、炭酸ガスが腹に溜まる感じがするのがお気に召さなかったという。

ナポレオンとシャンパーニュの関係において、中心的な役割を果たしたのは、エペルネ市長であり、メゾン・モエ(現在のモエ・エ・シャンドン社)の当主を務めていた、ジャン・レミー・モエである。ナポレオンとは士官学校時代からの友人で、英雄は戦役の途中や前後に、エペルネにあるモエのセラーを数回訪れたとされる。親交の証として、ジャン・レミー・モエに、自らが創設したレジオンドヌール勲章も授けた(1814年)。モエ社の経理帳簿には、第一執政から皇帝になった時期(1801~1805年)に、数度の購入がナポレオンからなされたと記録されている。1805年の注文は、アウステルリッツの戦いの数ヶ月前に行なわれており、来たるべき戦役の祝勝準備だった可能性が高い。メゾン・モエは、ナポレオン生誕100周年にあたる1869年、ノン・ヴィテージの主力キュヴェの名を「アンペリアル」(Impérial/「皇帝の」の意味)に改名し、今日まで使い続けている。

モエ・エ・シャンドン社の地下セラー

モエ・エ・シャンドン社の地下セラー

コンスタンシア

ナポレオンの最期に寄り添ったワインは、長年愛したシャンベルタンではなく、南アフリカ産の極甘口白、コンスタンシアであった。ケープタウン近郊のコンスタンシア地区で生産され、ミュスカ・ド・フロンティニャンを原料品種としている。ナポレオンが生きた時代、コンスタンシアはヨーロッパの王侯貴族のあいだで、極めて高い評価を得ていた。

コンスタンシアの原料品種、ミュスカ・ド・フロンティニャン。樹上で干しブドウ化している

コンスタンシアの原料品種、ミュスカ・ド・フロンティニャン。樹上で干しブドウ化している

ナポレオンがセント・ヘレナ島に追放された1815年から、1821年の死に至るまで、コンスタンシアは定期的に供給されていた。ナポレオンの側近であったラス・カーズ伯爵は、自分が手配してケープから取り寄せたコンスタンシアを、元・皇帝が非常に喜び、「ラス・カーズのワイン」と呼んでくれたと回想録に記している。胃癌で何も食べられなくなったナポレオンが、唯一口にできたのがこの甘口ワインで、末期の酒になったという。

3. 名言の考察

ナポレオンは多くの名言を遺した。最も広く知られているのは、「予の辞書に不可能の文字はない」(Impossible, n’est pas français.)だろう。原文を直訳すると、「不可能はフランス語ではない」で、ナポレオンが頻繁に口にしたとされる。不可能を可能にした偉人にふさわしい言葉だが、そのままの形で、ナポレオンが発したという記録はない。いかにも名言らしい上記の「形」に定着させたのは、後世の文豪オノレ・ド・バルザックのようだ。さて、ワインについての名言はどうだろう。

ひとつめは、シャンベルタンについての名言。「シャンベルタンのグラスを通してじっくり眺めるときほど、未来がバラ色に見えることはない」(Rien ne fait voir l’avenir couleur de rose comme de le contempler à travers un verre de Chambertin.)。結論を先に言おう。ナポレオンの言葉ではない。19世紀のフランス人作家アレクサンドル・デュマの代表作、『三銃士』(1844年)の主要登場人物であるアトスが、セリフとしてこの一文を最初に発した。なぜ混同が起きたのか。『三銃士』が書かれたのは、ナポレオン伝説がフランス国内で頂点に達していたタイミングだった。ナポレオンがシャンベルタンを愛したのは、歴史的事実である。デュマが生んだキャッチーな一文が、いつしか英雄に帰属させられ、口承で広まっていったようだ。

もうひとつの、シャンパーニュについての名言はどうだろう。「シャンパーニュ!勝利の際にはふさわしく、負けた時には必要だ」(Champagne! In victory one deserves it; in defeat one needs it.)。こちらも「不可能はない」と同じく、いかにもナポレオンらしいが、本人の言葉だと裏付ける一次資料は存在しない。おそらくは、後世の創作だろう。英語圏でこの名言を有名にしたのは、20世紀イギリスの大政治家、ウィンストン・チャーチルだ。シャンパーニュに目がなかったチャーチルは、1946年に贔屓のメゾンであるポル・ロジェを訪問した際、当主オデット・ポル・ロジェ夫人に対してこの一文を口にした。誤解が生まれたのは、その後もチャーチルがしばしば、この句を「ナポレオンの言葉」として紹介したからのようだ(チャーチルは、ナポレオンの熱心な研究者でもあった)。

4. ナポレオンがワイン界に与えた現実の影響

世間に流布する名言ふたつは、残念ながら英雄の口からは出なかった。しかし、為政者としてのナポレオンは、フランスワインの世界に大きな影響を与えた。

ナポレオン法典

ナポレオンによる、永続的な内政上の功績であるナポレオン法典(1804年制定)は、特にブルゴーニュ地方のブドウ畑の所有形態と経済構造を、不可逆に変えた。法典の中核的な原則のひとつが、遺産相続に関する規定である。同法典は、それまでの長子相続制を廃止し、土地を含む親の財産が、すべての子の間で均等に分割されねばならないとする原則を導入した。この均等相続法が、ブルゴーニュのワイン生産に与えた影響は甚大であった。先立つフランス革命(1789年)による、教会・貴族領の没収・売却という前提条件と、相乗効果が生まれたからだ。革命によって、教会や貴族が所有していた広大な単一所有地は、すでに細分化され民間に売却されていた。ナポレオン法典は、この小さい民間所有地に対して、世代交代のたびに「さらなる均等分割」を強制したのだ。

現存するナポレオン法典の書籍 ©DerHexer

現存するナポレオン法典の書籍 ©DerHexer

結果として、ブルゴーニュのブドウ畑は、世代を経るごとにネズミ算式に細かくなっていった。象徴が、約50ヘクタールの大きな特級畑クロ・ド・ヴージョであり、現在約80名の所有者がいる。ナポレオンが愛したシャンベルタンも、今日までに、約28ヘクタールの畑が20名以上の所有者に分割された。

ナポレオンが招いたワイン貿易の変容

ナポレオンの主要な対外経済政策である大陸封鎖令(1806年のベルリン勅令)は、ワイン貿易の地図を意図せず塗り替える結果をもたらした。同法令は、最大の敵国であったイギリスの経済を疲弊させるべく、ヨーロッパ大陸諸国とイギリスとの貿易を全面的に禁じた。

大陸封鎖令は、ボルドーのワイン貿易にとって壊滅的な打撃となる。ボルドーワインは、12世紀から何世紀にもわたって、イギリス市場に深く依存してきたからだ。港が封鎖され、最大の顧客を失ったボルドーのワイン商は、生き残りのため、新たな輸出先を必死に探さねばならなくなった。ロシア、スカンジナビア、アメリカといった新市場が、積極的に開拓されていった。

一方、シャンパーニュ地方にとって、ナポレオンの遺産はその「勝利」ではなく、「敗北」によってもたらされた。1814年のナポレオン失脚後、フランスに侵攻した対仏大同盟軍(特にロシア軍とプロイセン軍)は、シャンパーニュ地方を占領する。占領軍の兵士たち(特にロシア軍の将校)は、ランスやエペルネのワイン生産者のセラーになだれ込み、略奪同然にシャンパーニュを飲み干した。この混乱の最中、メゾン・ヴーヴ・クリコの当主であったバルブ・ニコル・クリコ夫人は、強奪される自社のワインを前にして、次のように述べたとされる。「今日は連中に飲ませなさい。明日には代金を支払うようになるでしょう」(Aujourd’hui ils boivent, demain ils paieront.)」。予言は的中する。占領が終わり、故郷に帰ったロシア軍将校たちは、シャンパーニュの泡立つワインの魅力を宮廷や上流社会に伝えた。かくしてロシア帝国が、世界最大かつ最重要な輸出市場となったのである(1917 年のロシア革命まで)。

5. 甥っ子ナポレオン三世

ナオレオン・ボナパルトには、ふたたび皇帝としてフランスを統治した甥っ子がいた。シャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte、1808-1873年)、皇帝ナポレオン三世として知られる人物だ。ナポレオン一世の弟で、オランダ王になったルイ・ボナパルトの息子である。1815年、叔父がセント・ヘレナへ流刑になったあと、国外に亡命して諸国を転々とした。1848年のフランス7月革命で王政が打倒されたのち、フランスへ帰国、同年の大統領選でフランス第二共和国大統領となる。1851年、国民議会に対してクーデターを起こし、翌1852年に皇帝に即位した(第二帝政の開始)。フランス最後の皇帝・王である。

『ナポレオン三世の肖像』(フランツ・ヴィンターハルター画)

『ナポレオン三世の肖像』(フランツ・ヴィンターハルター画)

叔父の好みはブルゴーニュだったが、甥っ子はボルドー好きだったようだ。イギリスに滞在していた1846年から1848年までの間に、英国人に「クラレット」と呼ばれていたボルドー産の赤に親しんだ。ワインの歴史におけるナポレオン三世の功績は、1855年に行なわれたボルドー産赤・白ワインの格付けである。1855年のパリ万国博覧会においてナポレオン三世は、フランスが誇る優れた農産物として、最上のボルドーワインをランキングにして展示した。

6. まとめ

ふたつの名言は、残念ながら後世の創作だった。よくあることだ。シャンベルタンとコンスタンシアを好んで飲んだのは確かだが、シャンパーニュはそうでもなかった。熱狂的なワイン愛飲家でなかったのは間違いない。それでもこの希代の傑物は、意図せざる結果だったとしても、フランスワインの三大産地(ブルゴーニュ、ボルドー、シャンパーニュ)を変えた。甥っ子とともに、「ナポレオン」の名は、ワインの歴史に深く刻み込まれている。遺したとされる名言が、「作り話」でもこの際かまわない。シャンベルタンを湛えたグラスの向こうに、バラ色の未来を見てみよう。敗北感にうちひしがれながら、シャンパーニュのコルクをひねろう。そうやって、ナポレオンが自ら生みだした激動の世界史を、想像してみようではないか。

パリの歴史的建造物アンヴァリッド内にあるナポレオンの墓

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