名言で嗜むワイン vol.1 ~「ワインはボトルに詰まった詩である」― ロバート・ルイス・スティーヴンソン

ワインを嗜むとは、杯に満ちた液体を言葉にする営みだ。香りや味という不定形な存在に、言語で輪郭線を描き、さまざまな色のシニフィアンで内側を埋める。ふさわしい言魂を得たワインは、空を自由に飛翔したり、人の世の本質という的を射抜いたりもする。

過去1万年に及ぶ歴史のなかで、多くの著名人がワインを言葉にしてきた。加えて、詠み人知らずでも、琴線をつかむ歌がある。本シリーズの記事では、そうした「言葉のワイン遺産」に光を当て、発した者について、時代背景、何を描きたかったなどを考察する。

本記事では、イギリスの作家スティーヴンソンの言葉、「ワインはボトルに詰まった詩である/The Wine is Bottled Poetry」について、深く掘っていこう。

本記事は、ワインスクール「アカデミー・デュ・ヴァン」が監修しています。ワインを通じて人生が豊かになるよう、ワインのコラムをお届けしています。メールマガジン登録で最新の有料記事が無料で閲覧できます。


【目次】
1. ロバート・ルイス・スティーヴンソンについて
2. 19世紀末のカリフォルニアワイン
3. 名言の考察
4. スティーヴンソンゆかりの名所
5. まとめ


1. ロバート・ルイス・スティーヴンソンについて

19世紀後半を生きた、イギリスの作家である。1850年、スコットランドのエディンバラにて生を受け、1894年に没した。代表作は、冒険小説の『宝島』、恐怖小説の『ジキル博士とハイド氏』。ただし、その創作範囲は長編小説にとどまらず、多数の短編小説、ノンフィクション、紀行文、そして詩集を世に出した。44年という短い生涯を通じて、健康不安に悩まされ続けたにも関わらず、世界を旅した。多作の書き手で、驚くほど多くの作品を、1874年からの20年ほどで刊行した。ワインに目がなかった。脳溢血で突然死する1894年12月3日、スティーヴンソンはワインの栓を抜こうとしていた。

『ジキル博士とハイド氏』 初版本の扉

『ジキル博士とハイド氏』 初版本の扉

20世紀の一時期は、「娯楽小説作家」と軽んじられていたものの、現代のイギリス文学研究では、同時代のディッケンズ(1812-1870)、オスカー・ワイルド(1854-1900)らと並び称されるほどの、高い評価を得ている。今では英語版の全作品・全文を、「Project Gutenberg」のウェブサイト上で、閲覧可能だ(無料公開)。邦訳についても、訳された年が古い主要作については、同様に「青空文庫」のサイトで読める。

くだんの名言が書かれたのは、1883年に刊行されたナパ・ヴァレーについての旅行記、『シルヴァラード・スクワッターズ The Silverado Squatters』(シルヴァラードの居候たち)の中である。10歳年上のアメリカ人雑誌記者、ファニー・オズボーンと1880年にサンフランシスコで結婚したスティーヴンソンが、新婚旅行で訪れたナパでの滞在を文字にした作品だ。

30歳のスティーヴンソン(カリフォルニアにいた1880年頃)

30歳のスティーヴンソン(カリフォルニアにいた1880年頃)

オズボーンとの結婚のため、スティーヴンソンは大西洋を渡り、ニューヨークからカリフォルニアまでアメリカ大陸を横断、その経験をもそれぞれ旅行記にしている。今の世なら、ロンドンからサンフランシスコまで飛行機で11時間だが、民間旅客機の運航開始は第1次世界大戦の後だ。病気持ちのスティーヴンソンにとって、二等客室での長い船旅、続いての列車の旅は、実に厳しい時間だったのだろう。死に体でカリフォルニアに着いたスティーヴンソンは、モントレー、サンフランシスコ、オークランドに一時滞在をしたものの、本格的に寝込んでしまう。オズボーンの献身的な看病で、どうにか健康が上を向いた1880年5月、ふたりは結婚を果たした。新婚旅行先には、温暖で乾燥していて、療養に良さそうなナパ・ヴァレーが選ばれた。

当初、夫妻はナパ・ヴァレー北端の町、カリストガにあった温泉付きホテルに向かったのだが、宿代が予算を超えていた。そこで、少し南に下ったセント・ヘレナの町から西へと向かい、山麓の採鉱跡に残っていた廃屋へと、勝手にもぐりこんだのである。夫妻が2ヶ月を過ごし、旅行記の題名にも使われた「シルヴァラード」とは、廃屋があった一帯の名称だ。現在、ナパ・ヴァレーの東側を南北に走る道路、シルヴァラード・トレイルと名前が同じだが、スティーヴンソンの滞在したのは、渓谷の反対側(西側)だった。

2. 19世紀末のカリフォルニアワイン

スティーヴンソンが訪れた1880年当時、カリフォルニアワイン、あるいはナパのワインは、どんな状況にあったのだろうか。

まずは、カリフォルニアの歴史を簡単に見ていこう。カリフォルニアワインの曙は18世紀の後半で、キリスト教フランシスコ会の伝道所によるが、当時はスペイン帝国が幅をきかす土地だった。19世紀に入ってしばらくが過ぎた1821年、独立革命を経てスペインから独立したメキシコが、カリフォルニアを領土の一部とする。しかしながら、メキシコの領有は長くは続かない。1848年に米墨戦争で敗戦したために、アメリカ合衆国へのカリフォルニアの割譲を強いられた(価格は1500万ドルで、現在の米ドルに換算すると、約6億3000万ドルという超安値)。米墨戦争終結の1ヶ月前には、シエラネバダ山脈の麓にあるサッターズミルで金が発見され、1855年までゴールドラッシュが続く。それまで、カリフォルニアにおけるワイン造りの中心は、南部のロサンゼルス周辺だったが、金鉱掘りたちの喉をうるおすため、北部にもブドウ畑が広がりはじめた。ゴールドラッシュの只中にあった1850年、カリフォルニアは合衆国31番目の州に昇格している。1860年から1865年にかけては、この国が経験した唯一の内戦である南北戦争が起きた。カリフォルニアは、勝利した北部諸州のひとつである。

川の砂鉱床で作業する金採掘者(1850年)

川の砂鉱床で作業する金採掘者(1850年)

1850年代から1870年代にかけてのカリフォルニアは、血なまぐさい殺戮が繰り返された時代でもある。カリフォルニア州議会は当時、ネイティヴ・アメリカンの殺害に賞金をかけていた。メキシコから割譲を受けたとき、カリフォルニアには15万人以上の先住民が住んでいたとされるが、1873年には3万人を下回ってしまう。ブドウ畑で手を動かしていたのは先住民だったから、ワイン産業は働き手を失ってしまった。1869年、アメリカの東西端を結ぶ大陸横断鉄道が開通すると、東から中国人労働者が押し寄せ、先住民に取って代わってくれたが、それも長くは続かない。1875年に中国人移民制限法(ページ法)、1882年に中国人移民排斥法が連邦議会で立て続けに成立し、チャイニーズたちもカリフォルニアのワイン産業から姿を消した。

国全体の経済も暗かった。1873年から1879年にかけて長期の不況が続き、1882年から1885年は恐慌となった。ブドウ畑も大変な災厄に見舞われる。1873年、ソノマ郡でフィロキセラが発見されたのだ。アメリカ系の台木に接ぎ木した苗へ、すべてのブドウ樹を植え替えなければならなかったが、不況のためにワイナリーは資金力を欠き、上述の理由で労働力の確保も容易ではなかった。加えて1884年には、州の南部オレンジ郡にあったブドウ畑を、アナハイム病(現在のピアス病)がほぼ根絶やしにしてしまう。

19世紀の後半、カリフォルニアではどんなブドウが植わっていたのか。スペイン人の修道僧たちが、18世紀末にもたらした黒ブドウのミッションに加え、19世紀に欧州から運ばれた新しいブドウが増えつつあった。功績者のひとりが、ゴールドラッシュでカリフォルニアにやってきたハンガリー人、アゴストン・ハラスティである。1850年代から1860年代初頭にかけてハラスティは、欧州から300種以上のヴィティス・ヴィニフェラの穂木を輸入した。19世紀末に主力だったブドウは、今もアメリカの象徴品種であるジンファンデルや、その混植パートナーとして最適なプティ・シラーである。

シュラムスバーグの地下セラー

創設当時に掘られたシュラムスバーグの地下セラー。中国人労働者たちが作業にあたった。現在は、スパークリングワインの貯蔵庫として使われている

ナパ・ヴァレーに目を向けると、彼の地にブドウ樹が初めて植えられたのが、1838年だ。今のAVAヨーントヴィルにその名を残す、ジョージ・カルヴァート・ヨーントによる。初の商業ブドウ畑とワイナリーは1856年設立で、起業家のジョン・パチェットが、ナパの町に建てた。今日まで残る最古のワイナリーは、1861年にセント・ヘレナで設立されたチャールズ・クリュッグである。チャールズ・クリュッグは、ワインをフレンチオーク樽で熟成させていたし、シードル製造の転用ではあったものの、今日のバスケット・プレスで果実を搾っていた。このほか、この時代に設立された高名な老舗ワイナリーとして、シュラムスバーグ(1862年/ダイアモンド・マウンテン)、ベリンジャー(1876年/セント・ヘレナ)、イングルヌック(1879年/ラザフォード)などがある。

3. 名言の考察

ここからは、スティーヴンソンの名言の背景と、その意味するところを探っていこう。旅行記『シルヴァラード・スクワッターズ』には、「ナパ・ワイン」と題されたチャプターがある。始まりはこうだ。「カリフォルニアワインには興味があった。というより私は、あらゆるワインに興味があり、それは生涯を通じてだ……」と、筋金入りだったのがわかる。この章の中で、スティーヴンソンはシュラムスバーグを訪れ、創業者のシュラム夫妻とともに、「バーガンディ」、「ホック」、「ゴールデン・シャスラ」などを味わっている(当時のカリフォルニアワインは、品種名ではなく欧州のワイン産地名を、銘柄の名称にしていた)。シュラムスバーグは今日、米国初の本格的スパークリングの造り手として知られているが、泡の生産が始まったのは、1965年の再設立以降である(禁酒法の期間中に、同蔵は一度廃業している)。

『シルヴァラード・スクワッターズ』の表紙(1886年刊行の版)

『シルヴァラード・スクワッターズ』の表紙(1886年刊行の版)

さて、「ボトルに詰まった詩」という名言は、この「ナパ・ワイン」の章にどのように登場するのか。前後を含め、原文と筆者訳を掲載する。

Wine in California is still in the experimental stage; and when you taste a vintage, grave economical questions are involved. The beginning of vine-planting is like the beginning of mining for the precious metals: the wine-grower also “Prospects.” One corner of land after another is tried with one kind of grape after another. This is a failure; that is better; a third best. So, bit by bit, they grope about for their Clos Vougeot and Lafite. Those lodes and pockets of earth, more precious than the precious ores, that yield inimitable fragrance and soft fire; those virtuous Bonanzas, where the soil has sublimated under sun and stars to something finer, and the wine is bottled poetry: these still lie undiscovered; chaparral conceals, thicket embowers them; the miner chips the rock and wanders farther, and the grizzly muses undisturbed. But there they bide their hour, awaiting their Columbus; and nature nurses and prepares them. The smack of Californian earth shall linger on the palate of your grandson.

カリフォルニアのワインは、まだ実験段階にある。そのヴィンテージを味わえば、深刻な経済問題が透けて見えるだろう。ここでブドウ栽培を始めるのは、貴金属の採掘を始めるのに似る。ワインの造り手たちもまた、「探鉱」を行なうのだ。ひとかけの土地に次々と、さまざまなブドウ品種が試されている。失敗、まだマシ、三度目の正直。こうして少しずつ、自分たちなりのクロ・ヴージョやラフィットを探り当てていく。見つかった大地の鉱脈や鉱嚢からは、貴重な鉱石よりも尊い、模倣不能な芳香とやわらかな炎が堀り出される。この高潔なる富鉱帯では、太陽と星の下で、土が優美ななにものかへと昇華し、生まれたワインはボトルに詰まった詩である。まだ見つかってはいない。シャパラルが覆い、下生えが隠している。鉱夫は岩を刻み、さらに遠くへとさまようが、ハイイログマの瞑想が妨げられはしない。だが、機会の訪れ、コロンブスの到来は待たれていて、自然がその素地を育みつつ備えている。カリフォルニアの大地の味わいは、あなたがたの孫の舌の上で、たなびくように残り続けるだろう。

シャパラル:カリフォルニアの暑く乾燥した夏と冷たく湿った冬に対応した、常緑の低木から成る生物群系を指すスペイン語。

掛け値なしの名文である。該当箇所のみならず、この段落全体が、美しい一遍の散文詩として成立している。スティーヴンソンが小説家だけでなく、詩人としても秀でていたのがよくわかる。

加えて、予言者としての力にも舌を巻く。優れた作家の眼とは、かくも遠くまで見通せるのかと、感嘆の念を禁じ得ない。現状の把握についても、正鵠を射ている。そう、確かにカリフォルニアのワイン産業は、まだ「実験段階」にあった。何千年の歴史をもつ欧州とは違い、どの土地にどんなブドウ品種を植えるべきか、どの畑がほかの畑より優れているか、何も自明ではない。無限の試行錯誤しか、取りうる道がない。「深刻な経済問題」とは、長引く不況や労働力不足を想定していたのだろう。しかし、スティーヴンソンの直感は、ナパが、カリフォルニアが約束の地だと告げていた。「コロンブスの到来」は、孫の代よりは少し遅かった。おおよそ100年後の、1970年代だろうか。パリスの審判が下り、世界がカリフォルニアワインを知った頃だ。

この時代のカリフォルニアワインは、実際のどのような味わいだったのか。スティーヴンソンに、その輝く未来を夢見させるほど、美味しかったのか。貴重な証言者のひとりが、カリフォルニアきっての哲人醸造家、リッジ・ヴィンヤーズのポール・ドレーパー(1936-)だ。19世紀後半から禁酒法(1920-1933)開始までの時代、カリフォルニアワインは最初の黄金期にあったのだと、ドレーパーは語る。ボルドーほか、フランスの高名な産地に範を取った伝統的なワイン造りが、カリフォルニアでも行なわれていたという。

証拠文献として残っているのが、エメット・リックスフォード Emmet Rixford によるワイン造りの教科書、『ワインの圧搾機とセラー The Wine Press and the Cellar』(1883年刊行)だ。リックスフォードは、カリフォルニア州サンタ・クルーズ山脈中にブドウ畑とワイナリーを所有していて、1890年代にはシャトー・マルゴーから、カベルネ・ソーヴィニョンの苗木を持ち帰り繁殖した人物でもある。1960年代に入る頃、ポール・ドレーパーはリックスフォードの教科書を手にとり、自身がのちに「前・工業的 Pre-Industrial」と名付ける醸造法を、独習で身につけた。

4. スティーヴンソンゆかりの名所

スティーヴンソンがカリフォルニアに滞在したのは、結婚前後の短い期間だったにも関わらず、同州にはゆかりのモニュメントが多数ある。

まずは、なんといってもナパ・ヴァレーの大看板であろう。ヴァレーを南北に貫く基幹道路、州道29号線沿いにある楕円形のサインボードは、記念写真の撮影スポットになっている。看板を立てたのは、地元のワイン生産者団体ナパ・ヴァレー・ヴィントナーズだ。「世界的に有名なワイン生産地、ナパ・ヴァレーへようこそ」の文字の右側、大樽の鏡板にスティーヴンソンの名言が記されている。

ナパ・ヴァレー・ヴィントナーズによる大看板

ナパ・ヴァレー・ヴィントナーズによる大看板

作家が滞在したセント・ヘレナには、ロバート・ルイス・スティーヴンソン博物館がある(1969年開館)。展示品・所蔵品は1万点以上と、非常に多い。この作家が幼少時に使っていたロッキングチェアから、所有していた多数の工芸品、日記や書簡、結婚証明書などなど、作家の生涯を振り返れるのみならず、19世紀末という時代の空気を感じられる施設となっている。

ナパ・ヴァレー以外にも、スティーヴンソンゆかりのモニュメントはある。結婚をしたサンフランシスコには、市の北東部にあるポーツマス広場に、スティーヴンソンの記念碑がある。最初に到着したカリフォルニアの町、モントレーで宿泊・療養したホテルは現在、スティーヴンソン・ハウスという名の記念館になっている。

大きい規模だとまず、ロバート・ルイス・スティーヴンソン州立公園だ。カリフォルニアの歴史的ランドマークとして公的に指定されている広大な公園(2133ヘクタール)で、ナパ、ソノマ、レイク郡にまたがっている。カリストガの町の北、州道29号線沿いに入口があり、ハイキングコースを登っていけばセント・ヘレナ山の頂上(標高1323m)に着く。道中には、作家夫妻が滞在した廃屋跡地を示す記念碑もある。カリフォルニアの州立公園に、外国人の名前が付くのは珍しい。

もうひとつは、サンフランシスコ湾に造成された人工島、トレジャー・アイランドだ。サンフランシスコ市内と、湾の対岸にある町オークランドとは、ベイブリッジと呼ばれる大橋で結ばれている。その中間地点にあるのがトレジャー・アイランドで、出来上がったのは1937年、当初は国際博覧会の会場が用途だった。その後、海軍基地になったが、1997年からは商業施設やレストラン、住宅などに利用されている。ベイブリッジの両端の町に、スティーヴンソンは滞在した。その真ん中を埋め立てた島に、代表作『宝島』の名が付いたのは、なかなかに気が利いている。

5. まとめ

至言が後世に残る人物とは、ワインを愛するだけでなく、ワインからも愛された者だろう。スティーヴンソンが、その資格を有するのはもはや言うまでもない。旅先のワインと恋に落ちたこの作家を、カリフォルニアは今もなお、全力で讃えているのだから。作家の未来予想は現実になり、ナパは、カリフォルニアは、世界有数のワイン産地へと成長した。だから、くだんの名言について、真偽を確かめるのは難しくない。なにか一本、ナパのワインを開ければよいのだ。中にはきっと、土から昇華したポエジーが詰まっている。

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