ワインは毎年、秋が来れば仕込まれる。偉大と称されるワインは皆、ブドウが摘まれ、酵母の力で酒に変わった年――ヴィンテージをラベルに記している(シャンパーニュなどで一部例外はあるが)。好天続きで、労せずして優品が量産されたような年もあれば、雨、霜、雹、熱波といった天候イベントによって、造り手が唇を噛んだ年もある。ただ、どれひとつとして同じ年はなく、優れたワインはどこの地域の産であれ、ヴィンテージの個性が刻印されている。
本連載では、第二次世界大戦が終わった年から現在に至るまでのヴィンテージを、世相や文化とともに、ひとつずつ解説していく。ワイン産地の解説としては、フランスの二大銘醸地であるボルドー、ブルゴーニュを中心とするが、折にふれて他国、他産地の状況も紹介していく。
本記事では、1954年を取上げよう。世界では、第一次インドシナ戦争が終わり、フランスの影響力が東南アジアから消えた。日本では、船にまつわる悲しい事故・事件がふたつ起きた。スペインで、その後この国の「顔」となるワインが初めて造られた。
【目次】
1. 1954年はどんな年だったか?
● 世界の出来事
● 日本の出来事
● カルチャー(本、映画など)
2. 1954年にはどんなワインが造られたか?
● ボルドーワインの1954年ヴィンテージ
● ブルゴーニュワインの1954年ヴィンテージ
● その他の産地
● 伝説のワインは生まれたか
3. 1954年ヴィンテージのまとめ
1. 1954年はどんな年だったか?
世界の出来事
アメリカ合衆国は、アイゼンハワー大統領による共和党政権下、未曾有の経済繁栄(「黄金の50年代」)を謳歌する一方で、公民権運動の夜明けという巨大な社会的断層を経験し始めていた。1950年に始まった、上院議員ジョセフ・マッカーシーによる共産主義者摘発運動(赤狩り)が、この年の末にようやく終焉を迎える(マッカッシーへの非難決議可決、12月)。5月17日、連邦最高裁判所は、公立学校における、(主に黒人を対象とした)人種隔離政策を違憲とする歴史的な「ブラウン判決」を下した。同判決は、長年南部諸州で続いてきたジム・クロウ法(人種隔離法)体制に法的な死刑宣告を与え、アメリカ社会における人種差別撤廃運動(公民権運動)の本格的な出発点となった。アメリカではまた、冷戦下における核抑止強化の一環として3月1日、太平洋のビキニ環礁で高出力水素爆弾実験「キャッスル・ブラボー」が実施された。広島型原爆の約1,000倍という桁外れの爆発力は、想定範囲外にまで放射性降下物(死の灰)を撒き散らし、周辺住民や日本の漁船(第五福竜丸)に深刻な被曝被害をもたらした。消費文化の面では、1954年1月1日、カラーテレビ放送が開始された。女優マリリン・モンローと国民的野球選手ジョー・ディマジオが、1月に結婚したが、10月に離婚した(2月には、新婚旅行で日本にもやってきた)。

ブラウン判決を書いた連邦最高裁首席判事、アール・ウォーレン
フランスにおける最大の出来事は、足掛け9年に及んだ第一次インドシナ戦争(1946-1954)の悲劇的な敗北である。これは、単なる一植民地での軍事的失敗にとどまらず、フランス軍の名誉と「帝国」としてのアイデンティティに対する壊滅的な打撃となった。パリ市民にとっては、ナチスによる占領以来の衝撃として受け止められたという。7月21日のジュネーヴ協定において、フランスはインドシナ半島からの完全撤退を余儀なくされ、ベトナムは北緯17度線を境として南北に分断された。フランスが、この年に味わった苦さはここでは終わらない。11月1日、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が各地で一斉蜂起を行ったのだ。泥沼のアルジェリア戦争(1954-1962)の始まりである。当時、アルジェリアは植民地ではなく、フランス本土の一部(海外県)と見なされていたため、紛争には内戦の側面があった。フランス社会は二分され、後の第四共和政崩壊の導火線に火が付いた。

アルジェリア民族解放戦線(FLN)の兵士たち。 © Fayeqalnatour
西ドイツにとって1954年は、敗戦国としての惨めな記憶を払拭し、国際社会への復帰と経済的自信を完全に取り戻した「復活の年」になった。7月4日、スイスで開催されたサッカー・ワールドカップ決勝戦において、西ドイツ代表が、当時無敵を誇っていたハンガリー代表を3-2で破り、初優勝を果たしたのだ(「ベルンの奇跡」)。この勝利は、単なるスポーツの結果を超えた意味を持ち、「精神的な建国記念日」とさえ呼ばれた。外交面では、10月23日にパリ協定が調印され、西ドイツの占領体制の終了、主権の回復、そしてNATO(北大西洋条約機構)への加盟と再軍備が承認された(発効は翌1955年)。西ドイツには、西側の不可欠な一員としての地位が与えられ、フランスとの和解プロセスも進行した。アデナウアー首相による西側統合路線が結実した瞬間であり、ドイツワイン産業にとっても輸出拡大への政治的障壁が取り払われる重要なステップとなった。

1954年サッカー・ワールドカップ優勝の西ドイツ代表の像。©Kandschwar
イタリアでは、隣国ユーゴスラビアとの最大の懸案事項であった、自由都市トリエステの帰属問題が、10月の「ロンドン覚書」による分割の合意で解決を見た。一方、ローマ近郊の海岸で若い女性ヴィルマ・モンテージの遺体が発見された事件(発生は前年)が、1954年に入り政界を揺るがす巨大スキャンダルへと発展する。捜査線上に外務大臣の息子や政治家が浮上し、隠蔽工作の疑惑が持ち上がったために、キリスト教民主党政権の道徳的権威が失墜した。この事件は、急激な経済成長の裏で進む腐敗を浮き彫りにし、巨匠フェリーニ監督の『甘い生活』(1960)など、のちの映画作品のモチーフともなった。
スペインでは、前年の米西防衛協定に基づき、アメリカからの経済援助物資や軍事支援が本格的に流入し始めた。結果として、長らく続いた自給自足経済(アウタルキー)の限界による困窮から、スペイン経済は徐々に回復の兆しを見せ始める。観光産業への投資もこの頃から意識され始め、後の「スペインの奇跡」と呼ばれる経済ブームの下地が作られた。
日本の出来事
戦後最大級の汚職、「造船疑獄」が起きた。海運・造船業界から政界へ巨額の賄賂が流れたとされる事件で、自由党幹事長・佐藤栄作に逮捕状が請求され、長期政権を維持した吉田茂内閣は総辞職した。代わって12月10日、日本民主党総裁の鳩山一郎が首相に指名され、第1次鳩山一郎内閣が発足する。吉田の「対米協調一辺倒・官僚主導」に対し、鳩山は「自主外交・憲法改正・庶民性」を掲げ、ソ連との国交回復を模索し始めた。鳩山内閣の発足は、翌年の保守合同(自由民主党結党)による、「55年体制」確立への直接的な序章となった。
国防上の大きな転機もあった。保安庁・保安隊が改組され、防衛庁および陸上・海上・航空自衛隊が発足したのだ。朝鮮戦争後の米国の戦略変化が背景にあり、日本は実質的な再軍備へと大きく舵を切った。当然ながら、護憲派や社会党を中心とする激しい反対運動が展開され、国会では乱闘騒ぎも起きた。
新聞の社会面では、船を襲った不幸が報じられた。まず、3月1日、米国の水爆実験「キャッスル・ブラボー」(上述)により、静岡県焼津港のマグロ漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴びた。乗組員23名全員が被曝、1名が死去し、広島・長崎の記憶がまだ生々しい日本に戦慄が走った。水揚げされたマグロからも放射能が検出された結果、「原爆マグロ」パニックが発生し、魚価が大暴落してしまう。杉並区の主婦たちから始まった原水爆禁止署名運動は瞬く間に全国へ拡大し、3000万筆を超える署名が集まった。次の悲劇は、青函連絡船「洞爺丸」の転覆・沈没である。9月下旬に到来した大型台風が引き起こしたこの事故は、死者・行方不明者1,155名という、タイタニック号事件に次ぐ世界海難史上稀に見る大惨事となった。洞爺丸の沈没は、本州と北海道を結ぶ青函トンネル建設を推進する決定的な動機となった。

転覆し、船腹を見せる洞爺丸
このほか、この年の日本で特筆すべき事柄として、地下鉄丸ノ内線の開業(戦後初の地下鉄新線)、学校給食法の施行がある。後者では、パン、ミルクが日本の食生活に大々的に取り入れられ(これは米国産余剰小麦・乳製品の受け入れであった)、国民的な「食の洋風化」が始まった。
カルチャー(本、映画など)
芥川賞の受賞作は、吉行淳之介『驟雨』、小島信夫『アメリカン・スクール』だった。吉行、小島はともに、戦後に私小説へと立ち戻った、「第三の新人」グループの代表格である。直木賞はこの年、有馬頼義『終身未決囚』、梅崎春生『ボロ家の春秋』、戸川幸夫『高安犬物語』の三作品が受賞している。1954年の日本におけるベストセラー1位は、伊藤整のエッセイ集 『女性に関する十二章』で、同年中に映画化もされた。ほかの作品では、三島由紀夫の代表作のひとつに数えられる純愛小説、『潮騒』が5位に入っている。
海外文学に目を向けると、1954年に発表された作品の中では、イギリス人作家ウィリアム・ゴールディングによる『蠅の王』、同じくイギリス人作家J.R.R.トールキンによる『指輪物語』(第1部と第2部)、フランス人作家フランソワーズ・サガンによる『悲しみよこんにちは』が、文学史に残っている。『指輪物語』は、今も巨大なファンダムを有するファンタジー小説の古典で、21世紀初頭に制作された三部作の映画も、大変な商業的成功を収めた。

『指輪物語』のページに置かれた「一つの指輪」。©Zanastardust
1954年のノーベル文学賞の受賞者は、アメリカの小説家アーネスト・ヘミングウェイだ。『日はまた昇る』(1926)、『武器よさらば』(1929)、『誰がために鐘は鳴る』(1940)など、ヘミングウェイには大傑作が多くあるが、キャリア終盤の作品である『老人と海』(1952)が受賞の決め手になったとされる。ヘミングウェイはこの作品を200回推敲し、極限まで無駄を切り詰めた文章に仕上げた。
1954年の日本映画界も、キネマ旬報ベストテンの上位に傑作が並んだ。第1位は木下恵介監督の『二十四の瞳』で、1952年発表の壺井栄の小説が原作、瀬戸内の小学校を舞台に第二次大戦の悲壮さを描いた。第3位には、黒沢明監督の神話的傑作のひとつ、『七人の侍』が、第5位と第9位には溝口健二の代表作に数えられる『近松物語』、『山椒太夫』が入っていて、この時代の日本映画界は宝の山さながらである。シリーズ化され、今日まで約40本が制作されてきた(ハリウッド版含む)、『ゴジラ』映画の第一作が公開されたのも、この年だった(監督:本多猪四郎)。

黒沢明の映画『七人の侍」のスチール写真
アメリカ映画の世界はどうだったか。この年のアカデミー作品賞を受けたのは、フレッド・ジンネマン監督の『地上より永遠に』である(公開は前年の1953年)。作品賞だけでなく、助演男優賞、助演女優賞、脚色賞、撮影賞(白黒)、編集賞も穫った。しかし、今日この年のアカデミーの受賞作で、今も多くの人の記憶に残っているのは、ウィリアム・ワイラー監督によるロマンティック・コメディの名作、『ローマの休日』のほうだろう。主演女優賞を獲得したオードリー・ヘプバーンの代表作のひとつである(本作は他に、原案賞、衣装デザイン賞(白黒)も穫った)。

映画『ローマの休日』のヒト駒。真実の口の前のオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペック
ヨーロッパの国際映画祭の筆頭であるカンヌでは、衣笠貞之助監督の『地獄門』がグランプリに輝いた。日本映画がカンヌの頂点に立ったのは本作が初である(ここから、次の黒沢明監督『影武者』(1980年受賞)まで、かなり間があく)。ヴェネツィア国際映画祭で最高の作品に贈られる金獅子賞は、レナート・カステラーニの『ロミオとジュリエット』。しかし、セカンドベストの銀獅子賞として並んだ4作品、フェデリコ・フェリーニ監督の『道』、エリア・カザン監督の『波止場』、黒沢明の『七人の侍』、溝口健二監督の『山椒太夫』のほうが、映画史における評価ははるかに高い。ベルリン国際映画祭では、デヴィッド・リーン監督のイギリス映画、『ホブスンの婿選び』に贈られた。
音楽の世界では、エルヴィス・プレスリーがこの年にデビューしている。メンフィスのサン・レコードで楽曲『ザッツ・オールライト』を録音し、地方のラジオ局で放送された。白人が、黒人音楽であるリズム&ブルースを歌い、これがロックンロール誕生へとつながっていく。
1954年のビルボード年間チャートで最高位に輝いたのは、歌手キティ・カレンが唄った『リトル・シングス・ミーン・ア・ロット』。週間チャートで、9週連続第一位を獲得し、ソング・オブ・ザ・イヤーになった。
1954年に生を受けた著名人について、手短に紹介しよう。政治の世界では、日本における歴代最長在任首相の安倍晋三、ドイツの元首相アンゲラ・メルケル、フランスの元大統領フランソワ・オランドなど。財界では日産自動車元会長のカルロス・ゴーンら。スポーツ界では、野球選手の中畑清、ランディ・バースら。アカデミアでは、心理学者のスティーブン・ピンカーら。文学界では、ガズオ・イシグロ、林真理子ら。音楽界では松任谷由実、エルヴィス・コステロ、ジョー・ジャクソン、スティーヴィー・レイ・ヴォーンら。映画界では、監督のジェームズ・キャメロン、マイケル・ムーアら。俳優では、ジャッキー・チェン、ジョン・トラボルタ、檀ふみ、石田純一らが、それぞれこの年の生まれである。
死没者としては、フランスの画家アンリ・マティス、アメリカの報道写真家ロバート・キャパ、数学者アラン・チューリング、指揮者ヴィルヘルム・フルトベングラーらがいる。
2. 1954年にはどんなワインが造られたか?
ボルドーワインの1954年ヴィンテージ
大当たり年だった前年から暗転、非常に厳しい生育期間だった。雨が降り続き、夏の天候は悲惨の一言に尽きた。ブドウが熟さなかったから、青臭く、タンニンのギザギザしたワインになった。今では、この年のボルドーで生まれた酒を記憶する者はほとんどいない。古酒の神様マイケル・ブロードベントの採点は、赤、甘口白ともに星印ゼロの最低評価。ボルドーのヴィンテージに関する大著を書いたニール・マーティンは、「1951年や1956年ほどは腐されなかったが、評判のよかった1953年、1955年に挟まれてしまい、無視された」と述べている。1954年産ワインが瓶詰めされる前に、翌1955の明るい見通しを市場が知ったため、誰も手を出さなかったのだ。
1月には、マイナス8℃に達する強烈な寒波があった。3月に芽吹いたものの、4月に何度か到来した冷え込みで、ブドウ樹の成長は遅れる。開花は6月上旬に始まったが、雨で何度か遮られ、ウドンコ病が広がりだした。気温は上がらず、ジメジメ、8月上旬には少し30℃超えの日があったものの、そこからまた雨続き、夏の暑さは再びやってこなかった。9月になっても雨はやまず、黒ブドウの収穫が開始されたのは10月に入ってからだった。ソーテルヌの摘み取りはさらに遅く、イケムで最後のハサミが入れられたのは、11月16日である。
ブルゴーニュワインの1954年ヴィンテージ
基本的な構図はボルドーと同じ、ふたつの好ヴィンテージに挟まれたせいで、市場にそっぽを向かれた。それでも、ブルゴーニュにはまだ救いがあった。夏の低温と雨は左に同じだったが、秋に天候が回復したからだ。とはいえ、ブロードベントの評価は、赤が二つ星、一つ星で、程度に差こそあれど、厳しい年だったのは変わらない。ブルゴーニュのヴィンテージに関する大著を書いたアレン・メドウズが、このヴィンテージに下した評価は一つ星である。
冬は長く、強く冷え込んだので、萌芽は遅くなった。春の天候は良かったが、晩春には気温が下がり、ブドウ樹の成長はさらに後ろに倒れた。開花は遅く、ダラダラと長引いたが、結実量は多かった。7月は気温が上がらず、8月には低温に加えて雨も降った。9月になって気温が上がったものの、収量が多かったがために、果実が完熟に至らなかった。収穫開始を10月7日と、かなり後ろまで引っ張ったものの、果実は未熟なままだった。低い糖度を埋め合わせるために、大量の補糖がなされた。DRCはこの年、エシェゾーとグラン・エシェゾーを発売していない。
その他の産地
フランスは、ことごとくダメだった。ローヌ渓谷、ロワール渓谷、アルザス地方、シャンパーニュ地方のすべてについて、ブロードベントは一切の言及をしていない(星ゼロ)。
ほかの欧州主要産出国はどうだったか。ドイツも、ブロードベント曰く、「絶望的な天候」と悲しい(もちろん星はゼロ)。イタリアも、冴えなかった(ブロードベント二つ星)。頑張ったのはスペインで、当時の中心産地リオハの作柄が良く、長寿のワインが生まれている(この時代のスペインは、ブロードベントの評価の対象外である)。
ポートワインの産地ドウロ渓谷は、ブロードベントの三つ星。質自体は悪くなかったが、量が少なかったのと、翌年が豊作かつ良質だとわかっていたので、どのシッパーもヴィンテージ宣言をしなかった。同じポルトガル領の酒精強化の産地、マデイラ島は、ブロードベントの四つ星で、「戦後しばらくのヴィンテージの中で、もっとも優れた年のひとつ」と、五つ星が付いてもよいぐらいのコメントだ。
カリフォルニア(ナパ)は、卓越したヴィンテージだった。ただし、8月の雨のせいで、比較的カビに弱いジンファンデルには被害が出た。
オーストラリアの南東部は、取り立てて良くも悪くもない、平凡なヴィンテージだった。グランジは生産されたが、今では峠を越してしまっている。
伝説のワインは生まれたか
ボルドーの赤・甘口白で、ブロードベントが三つ星以上を付けたシャトーはこの年、ひとつもなかった。ニール・マーティンは、ポムロールのレグリース・クリネについて、期待を上回ったと述べているが、ほかには試飲記録自体がほとんどないようだ。
ブロードベントが、1954年産ブルゴーニュ赤に付けた最高評価は三つ星で、ロマネ・コンティのみである(1996年試飲)。アレン・メドウズが、この年に90点以上の得点を与えた赤は、オスピス・ド・ボーヌのコルトン・キュヴェ・ドクトール・ペスト(90点/2004年試飲)、ドクター・バロレ・コレクションのシャンボール・ミュジニ(90点/2002年試飲)だけ、白は一銘柄もない。ただ、ブルゴーニュワインの権威ジャスパー・モリスは、DRCのリシュブール(2007年試飲)に対し、「並外れた品質と元気の良さ」という、かなりの賛辞を送っている。
1954年のヴィンテージ・マデイラは、この酒が元来有する長寿の性質と、良好なヴィンテージが相まって、掘り出しモノになっている。ブランディーズのブアル(ブロードベント四つ星)、エンリケシュ&エンリケシュのマルムジー(同四つ星)、ヴィエイラ・ペレイラのネグラ・モーレ・レゼルヴァ・ヴェーリョ(同四つ星)、ジュスティーノ・エンリケシュのヴェルデーリョVJH(同四つ星)あたりは、簡単には見つからない品ではあるものの、まだ美味を保っている可能性が高い。
カリフォルニアのナパ・ヴァレーでは、イングルヌックのカスクJ-3カベルネ・ソーヴィニョンが、この年のワインとして高い評価を得ている。ただし、この銘柄の伝説的なヴィンテージである1941や1958には及ばないようだ。
1954年産で、ロバート・パーカー自身が100点満点を与えたワインは、一銘柄もない。
スティーヴン・スパリュアが、『死ぬ前に飲むべき100のワイン』の中に含めた1954年産のワインも、やはり一銘柄もない。
さてここで、1954年のワイン・オブ・ザ・ヴィンテージ、伝説のボトルを選ぶとしよう。スペイン・カタルーニャ地方きっての名門ワイナリー、ファミリア・トーレス社の赤ワイン、サングレ・デ・トロ(Sangre de Toro)の初リリースだ。このワイン、発売が1954年だから、原料ブドウの全部または大部分は、その前年の1953年産であろう。とはいえ、エントリークラスの銘柄だから、高級ワインほど収穫年が問題になりはしない(日本での実勢価格は、税込1,900円程度)。廉価品なれど、サングレ・デ・トロは、スペインワインの国際化、近代的ブランディングにおいて、大きな役割を果たし、今も市場でプレゼンスを保ち続けている。現代ワイン史で、必ず言及されるべき存在だ。
一族の三代目、ミゲル・トーレス・カルボ(1909-1991)が、サングレ・デ・トロの生みの親である。カルボの時代、スペインはフランコ独裁政権下で、国際的な孤立が長く続いていたが、男の目は国外を向いていた。
当時のスペインワイン産業は、質よりも量を優先する協同組合が幅をきかせており、輸出されるのも、安価なバルクワインが主だった。しかし、トーレスは、第二次大戦終結前から、己のブランドを冠したボトルワインの販売を開始していた。同社の新たなボトルワインである、サングレ・デ・トロの開発にあたって掲げられたビジョンは、「卓越した品質を、すばらしくお値打ちな価格で」である。実現のために、カルボは自ら車でカタルーニャ中を回り、良質のガルナッチャとカリニェナの畑を探した。
サングレ・デ・トロは、スペイン語で「雄牛の血」を意味する。トーレス社によれば、ローマ神話の酒の神バッカスは、古代において「雄牛の息子」として知られていたらしい。雄牛はまた、闘牛を含むスペイン文化の象徴でもある。ワインの神と、スペインのシンボルとの組み合わせは、世界市場へ打って出るにふさわしいネーミングだった。
ちょっとした工夫も、新しい銘柄の市場への浸透を助けた。サングレ・デ・トロのボトルには、黒いプラスチック製の「雄牛のお守り」が付けられている。お守りは、言語の壁を越えて消費者の視覚に訴えかけ、ブランドの記憶を強烈に定着させた。今もこのお守りは文字通り、ブランドを守る強力な資産として健在である。

サングレ・デ・トロの瓶口にぶらさがっている、雄牛の「お守り」
ビジネス・スクールの教科書にでも載せるべき、大成功をサングレ・デ・トロは収めた。1990年までに、その輸出先は100カ国を超え、現在は世界150の国の人々に親しまれている。「スペインワインは安くて美味い」というカテゴリーイメージが生まれたのは、かの国のワイン産業全体にとって、とてつもなく大きい。トーレス社自体も、サングレ・デ・トロがもたらしてくれた利益によって、ハイエンドのワイン開発(1970年代~)や、チリへの進出(1979年~)が可能になった。近年のトーレスは、地球規模での気候変動対策の領域で、世界のリーダー的な存在になっている。
3. 1954年ヴィンテージのまとめ
当時の二大高級ワイン生産国であった、フランスとドイツは、この年はさっぱりダメだった。フランスは、社会情勢も厳しかった。ドイツは、サッカーには勝ったがワインでは負けた。それでも、スペインではこの年、ゲームチェンジャーになる銘柄が生まれた。ワインの歴史は、高額品によってのみ編まれているのではない。「安酒」だって、創意工夫とひらめきがたっぷりあれば、国や世界を救う星になれるのだ。
【主要参考文献】
『世紀のワイン』 ミッシェル・ドヴァス著(柴田書店、2000)
『ブルゴーニュワイン100年のヴィンテージ 1900-2005』 ジャッキー・リゴー著(白水社、2006)
『ブルゴーニュワイン大全』 ジャスパー・モリス著(白水社、2012)
Jasper Morris, Inside Burgundy 2nd Edition, BB&R Press, 2021
Jane Anson, Inside Bordeaux, BB&R Press, 2020
Stephen Brook, Complete Bordeaux 4th Edition, Mitchell Beazley, 2022
Allen Meadows, Burgundy Vintages A History From 1845, BurghoundBooks, 2018
Michael Broadbent, Vintage Wine, Websters, 2006
Steven Spurrier, 100 Wines to Try before you Die, Deanter, 2010
Robert Parker’s 100-Point Wines, Wine-Searcher






