ワインは毎年、秋が来れば仕込まれる。偉大と称されるワインは皆、ブドウが摘まれ、酵母の力で酒に変わった年――ヴィンテージをラベルに記している(シャンパーニュなどで一部例外はあるが)。好天続きで、労せずして優品が量産されたような年もあれば、雨、霜、雹、熱波といった天候イベントによって、造り手が唇を噛んだ年もある。ただ、どれひとつとして同じ年はなく、優れたワインはどこの地域の産であれ、ヴィンテージの個性が刻印されている。
本連載では、第二次世界大戦が終わった年から現在に至るまでのヴィンテージを、世相や文化とともに、ひとつずつ解説していく。ワイン産地の解説としては、フランスの二大銘醸地であるボルドー、ブルゴーニュを中心とするが、折にふれて他国、他産地の状況も紹介していく。
本記事では、1948年を紹介しよう。どの国も天候不順だったが、ボルドーほかいくつかの産地、あるいはワイナリーは善戦した年である。
【目次】
1. 1948年はどんな年だったか?
● 世界の出来事
● 日本の出来事
● カルチャー(本、映画など)
2. 1948年にはどんなワインが造られたか?
● ボルドーワインの1948年ヴィンテージ
● ブルゴーニュワインの1948年ヴィンテージ
● その他の産地
● 伝説のワインは生まれたか
3. 1948年ヴィンテージのまとめ
1. 1948年はどんな年だったか?
世界の出来事
1948年の世界は、冷戦が激化し、ソ連によるベルリン封鎖、アメリカのマーシャル・プランに対する東側諸国の反発、イスラエル建国と第一次中東戦争勃発など、東西対立と新たな紛争の火種が顕在化した年だった。
前年に発表されたマーシャル・プランによって結束した西側諸国に対し、ソ連は同じく前年に設立したコミンフォルム(共産党情報局)によって対抗する。マーシャルの復興計画が、アメリカ帝国主義の道具だと強く非難し、圧力をかけたのである。とりわけ、すでにソ連の影響下にあった東側諸国への圧が強く、1948年2月にはチェコスロバキアで共産党がクーデターを企図(勝利の2月)、政権を握っている。前年にソ連が打ち出した東側諸国による経済協力の枠組み、モロトフ・プランについては、具体的な進展があまり見られなかったものの、それでも東側諸国間でのブロック経済化は少しずつ進み始めた。西欧諸国では、現在のEU(欧州連合)につながるOEEC(欧州経済協力機構)が、この年に発足している。
軍事的な緊張が一気に高まったのは、ドイツの元(現)首都をめぐる攻防、「ベルリン封鎖」事件だ(1948年6月)。ソ連は、自国が占領統治していたベルリンの街の東部を、連合国軍(アメリカ、イギリス、フランス)が統治していた西部から切り離し、陸路と水路を遮断したである。このソ連の行動により、ベルリン西部は外の世界と断切してしまうが、西側諸国は大規模な空輸で西ベルリン市民を救い、結果として約1年後に封鎖は解かれた。ソ連の実力行使は、西側諸国による協同軍事安全保障の枠組み形成を促し、翌年の北大西洋条約機構(NATO)設立へとつながっていく。NATOが築かれる土台になったのが、1948年3月に調印されたブリュッセル条約で、フランス、イギリス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクが相互防衛を定めた。

西ベルリンの空港に物資を空輸してきた連合国軍の輸送機を見上げるベルリン市民
すでに焦臭かった中東が、一気に爆発に至ったのもこの年だ。4月、ユダヤ人テロ組織が西エルサレムで、アラブ人を大量虐殺するデイル・ヤシーン事件が発生。5月14日には、パレスチナのユダヤ人たちが、イギリスの委任統治からの独立を宣言し、イスラエルが建国された。周辺のアラブ諸国はその翌日、即座にイスラエルへ侵攻し、第一次中東戦争が勃発している。
ワイン王国フランスでは、第四共和政が続いていたが、政局は不安定だった。目立った出来事としては、12月にパリのシャイヨー宮で開催された、第3回国連総会での世界人権宣言の採択があげられるだろう。イタリアでは、戦時中のムッソリーニによるファシズム独裁政治から、民主主義国家へ生まれ変わるための歩みが大きく進んだ。1月の共和国憲法施行、4月の総選挙実施、5月のルイージ・エイナウディの大統領就任と、ステップが踏まれている。ただ、国民が一丸になっていたわけではない。総選挙では中道右派のキリスト教民主党が勝利したが、イタリア共産党の勢力も強く、国内で東西冷戦が繰り広げられていた。
アメリカ合衆国では、11月に大統領選挙が行なわれ、民主党のハリー・トルーマン現職候補が、圧倒的に不利という下馬評を覆し、共和党のトーマス・デューイ候補に競り勝った(「トルーマンの奇跡」)。トルーマンは選挙に先立つ7月、軍隊内での人種差別を禁止する大統領令に署名している。トルーマンはほかにも、アフリカ系アメリカ人を連邦職員に任命するなど、のちの公民権運動へつながるアクションを複数起こした。
アジアでは、朝鮮半島がふたつの国に分かれ、南の大韓民国(8月)、北の朝鮮民主主義人民共和国が、相次いで樹立された。このほか、アジアではスリランカ(当時の名称はセイロン)と、ミャンマー(当時の名称はビルマ連邦)が、イギリスから独立している。
日本の出来事
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領統治、民主化政策はまだ続く。左翼運動の流れで激化してきた労働争議の予防・解決を目的とした、労働関係調整法がこの年に施行された(前後に制定された労働組合法、労働基準法と併せて、「労働三法」と呼ばれる)。経済面では、インフレの深刻化、食糧不足、闇市への依存といった、戦後の混乱・困窮がまだ続いていた。

第二次世界大戦後、東京都新橋にあった闇市。戦中から続いていた配給制度では、絶対的に量が不足していた食糧などの物資を、市民が買い求めた
戦後処理としては、1946年から続いていた極東国際軍事裁判(東京裁判)について、11月に判決が言い渡されたのが大きな出来事である。「平和に対する罪」を犯したとされるA級戦犯25名が有罪となり、東条英機(元首相、陸軍大将)を含む7名が、同年中に絞首刑に処された。
この年に世を震撼させた犯罪としては、帝銀事件がある。東京都豊島区の帝国銀行(現在の三井住友銀行)の支店にやってきた男が、毒薬を「赤痢の予防薬」と偽って行員らに飲ませて殺し(死者12名)、現金・小切手を奪ったという空前の悪行だ。犯人逮捕、死刑判決からその執行と、事件はすでに完結しているものの、「冤罪」、「GHQの陰謀」といった説を唱える者も多く、いまだに謎が多いとされる。
カルチャー(本、映画など)
日本では、芥川賞も直木賞も戦争のために中断されていた時期で(1945年から1948年まで)、当然ながら受賞作はない。この年の日本におけるベストセラー1位は、太宰治の代表作のひとつ、『斜陽』である(刊行は前年末)。この本から来た言葉、戦後の没落階級を指す「斜陽族」は、流行語になった。太宰は同じ年、あまりに有名な『人間失格』を書き上げたあとの6月13日、満38歳で入水自殺している。なお、1948年の日本におけるベストセラーリストには、ドストエフスキーの『罪と罰』、モーパッサンの『女の一生』といった翻訳文芸が目立つ。第二次大戦中の思想統制の一環として、敵国文化の「輸入」が禁じられていたのが、終戦で解禁になった現れである。

1948年2月、『人間失格』執筆開始直前の太宰治(田村茂 撮影)
太平洋の向こうのアメリカでは、ノンフィクション小説の名手、ノーマン・メイラーがこの年に上梓した『裸者と死者』が最もよく売れた。己が従軍した日米の戦いについて書いた作品で、アメリカ最高の戦争文学のひとつと評価されている。日本では絶版になって久しいが、同作の中には、メイラーが1945年にしばらく滞在した、銚子についての記述がある。ノーベル文学賞を1948年に受賞したのは、アメリカで生まれ、イギリスで活躍した詩人のT・S・エリオット。代表作は、5部構成になっている長い詩、『荒地』(1922年刊行)である。ノーベル文学賞といえば、後年、日本人として初めて同賞を受ける川端康成の代表作 『雪国』が、完成形としてこの年に出版されている(『雪国』は、連作短編として発表され、1937年に一部の編をまとめた単行本が、先行して刊行されていた)。
日本映画については、映画雑誌『キネマ旬報』が年間第1位に選んだのが、「世界のクロサワ」こと黒澤明監督による『酔いどれ天使』である。闇市に君臨するヤクザの若者と、貧しい中年医師との関わり合いを通じ、戦後の日本をヒューマニズムで描き出した。合計16作も撮られた、黒澤明監督、三船敏郎主演という黄金タッグも、この作品からだ。アメリカ映画だと、この年のアカデミー賞作品賞は、エリア・カザン監督の『紳士協定』である(公開は前年の1947年)。カザンは1955年にも再び、『波止場』で作品賞を受賞している。ヨーロッパの国際映画祭の筆頭であるカンヌは、予算不足を理由として、1948年から1950年までは開催されなかった。1948年公開のヨーロッパ映画の傑作としては、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』がある。ネオ・レオリズモ映画を代表する作品で、翌年(1949年)のアカデミー賞で、特別賞(外国語映画賞)を授けられた。

エリア・カザン監督 『紳士協定』 のポスター
ポピュラー音楽の界隈では、アメリカのジャズ奏者 ピー・ウィー・ハントによるピアノのラグタイム曲、 『12番街のラグ Twelfth Street Rag』が、年の瀬に発表されるビルボード年間チャートで最高位に輝いた。もともとは、1914年にユーディ・ボウマンが作った曲である。
この年に生を受けた著名人について、手短に紹介しよう。政治家では、元アメリカ合衆国副大統領で、地球温暖化への警鐘を早くから鳴らしたアル・ゴアがいる。音楽の分野では、イギリスの伝説的ロックバンドであるレッド・ツェッペリンのボーカルを務めたロバート・プラントが、この年の生まれ。フランス人俳優のジャン・レノも、1948年に誕生した。このほか、ロシア人バレエダンサーのミハイル・バリシニコフ、アメリカ人映画監督で「B級映画の巨匠」と呼ばれたジョン・カーペンターも、1948がバースデー・ヴィンテージである。
一方、この年の死没者としては、「インド独立の父」 マハトマ・ガンジー、「映画の父」 リュミエール兄弟の弟であるルイ・リュミエール、『戦艦ポチョムキン』などの作品で知られるソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュタイン、フランスの前衛的劇作家・詩人のアントナン・アルトー、元祖二刀流のホームラン王 ベーブ・ルース、そして前述の太宰治らがいる。
2. 1948年にはどんなワインが造られたか?
ボルドーワインの1948年ヴィンテージ
赤については、1945、1947、1949といった前後の偉大なヴィンテージには比べるべくもないが、1946年よりは明らかに良く、なかなか立派なワインも多く生まれた。おしなべて言うなら、「平均点以上」の年だった(古酒の神様マイケル・ブロードベントの星数評価は、満点5つ星のうち3つ)。しかしながら、リリース当時は流通にそっぽを向かれるという不幸に見舞われており、これまた1946年と同じ構図だが、1947年と1949年という、傑出したふたつの年に挟まれていたせいである。まだ、戦後の混乱は続いていて、よほどの高みに達したワインしか、売れなかったのだ。ボルドーワインのヴィンテージに関する大著を書いた評論家のニール・マーティンは、「この時期のダークホース」と、ふさわしい言葉で表現している。ただし、悪くなかったのは赤だけで、白甘口(ソーテルヌなど)の出来はぱっとしなかった。
この年のボルドーの天候はどうだっただろうか。1月の気温は高かったが、2月にはマイナス9℃まで、一転して冷え込んだ。春の天候は申し分なかったが、初夏に入ると雨の到来とともに気温が下がり、花震いが落ちて結実がうまく運ばなかった。結果として、平年より2~3割程度、多くのシャトーで収量が下がっている。6月には嵐もあって、ベト病、ウドンコ病の脅威が強まった。7月中旬から8月中旬までは、気温も高く乾燥していたが、その後また暗転する。とはいえ、9月17日には土砂降りがやんで気温も上がった。赤については9月22日頃から、摘み取りが理想的な環境下で始まり、収穫終了まで続いた。ソーテルヌ地区の収穫も、同様に好天の中で始まったものの、このエリアでは果実の成熟があまり進んでいなかった。
ブルゴーニュワインの1948年ヴィンテージ
ボルドーよりは明らかに作柄が悪く、「平凡な年」と評される(ワインの世界では文字通りではなく、ややネガティヴな意味)。ブロードベントの星数評価は、満点5つ星のうち3つ。傑出した1947、1949年に挟まれ、印象が薄くなったのはボルドーと同じだ。とはいえ、優れたボトルが生まれなかったわけではなく、ブルゴーニュワインの権威のひとり、ジャスパー・モリスは「見落とせない年で、ミディアムボディのワインがたくさん生まれた」と評している。ブロードベントは、「まずまず悪くなく、どこか一風変わったワインたち」と記した。白のほうが、赤よりも出来がよかったようだが、飲める状態の白はもう残っていないだろう。
春は遅かったものの、悪い運びではなかった。ただ、標高の低い一部の地域では霜の被害が出ている。夏は早く到来したが、雨が多く気温も低かった。そのせいで、コート・ド・ニュイですべての花が結実に至ったのは、7月に入ってからとかなり遅く、着果にも問題がでた。8月半ばから天候は回復し、10月初旬からの収穫開始(当時としても遅い)まで好天は続き、最後に救われた形となった。結実不良に見舞われたにもかかわらず、収量は比較的多めで、そのせいでブドウの熟度が平年より低かった。そのため、この不足を埋め合わせよう、なんとかボディを増強しようと、過剰に補糖されたワインが少なくない(戦後の物資不足がようやく解消へ向かい、砂糖が手に入るようになったためでもある)。
その他の産地
ボルドーこそまずまずだったものの、残りのフランスは天候不順でおしなべて困難な年だった。ローヌ、ロワール、アルザス、シャンパーニュといったどこの産地でも、品質面で特筆すべきワインは生まれていない。ドイツもパッとしないし、イタリアも左に同じ。
ポートワインは、秀逸な年(ブロードベント4つ星)だったにも関わらず、ヴィンテージ宣言をしたのは、9つのワイナリーに留まった。初期段階では、ワインの評価があまり高くなかったためのようで、ヴィンテージポート生産を見送った造り手たちは、あとから「しまった」とほぞを噛んでいる。同じポルトガルの酒精強化ワインでも、マデイラはイマふたつぐらいであった(ブロードベント2つ星)。
カリフォルニアも、1946、1947と2年続いたすばらしい天候が、この年には再来しなかった。
伝説のワインは生まれたか
この年のボルドーの作柄について、古酒の神様マイケル・ブロードベントは、「生まれたワインの一部は、たくましすぎて魅力を欠いていたが、香り高く上手に仕込まれている銘柄もある」と評している。左岸で満点の五つ星が献上された銘柄は、まずサン・ジュリアンの格付け2級、シャトー・レオヴィル・ヴァルトンのみで、格付け1級5大シャトーを抑えての金星だ。1992年時点の試飲ノートには、「ワクワクさせられる、甘く熟したブーケと風味があり、豊潤かつ非の打ち所のないタンニンと酸には、バランスとエレガンスが見られる」という絶賛の言葉が並んだ。1992年時点のコメントだが、これほどの賛辞を受けた銘柄なら、今日でもまだ命を保っているかもしれない。なお、ペサック・レオニャンのラ・ミッション・オー・ブリオンも5つ星評価だが、最後にブロードベントが試飲した1998年時点で、衰えが見られ始めていると記している。四つ星評価については、左岸ならラフィット、マルゴー、オー・ブリオン、右岸ならシュヴァル・ブラン、ペトリュス、レヴァンジル、ラトゥール・ア・ポムロールと、それなりの数の銘柄が挙げられており、ボルドーに限って言えば決して冴えない年ではなかったのがうかがえる。ニール・マーティンにとって、この年のベストはシュヴァル・ブランであり、ブラインド・テイスティングで供された際、1982年の同銘柄だと推定したそうだ。マーティンは、1948が、伝説の1947シュヴァル・ブランを上回るとすら書いている。このほか、マーティンの評価が高いのがヴュー・シャトー・セルタンで、一緒に試飲した同じ年のペトリュスを打ち負かした。

ブロードベントは、この年のブルゴーニュワインに対し、星の評価を与えていない。2000年時点で、「よい保管状態にあったDRCの1948は、いまだ豊潤で香り高いだろう」と記しているが、それから25年、まだ生きていてほしいところだ。ほぼブルゴーニュワイン専門の批評家アレン・メドウズは、この年のワインが当初想定されていたよりもずっと長寿だと驚いており、凝縮感こそ欠いていたものの、小作りにバランスよくまとまっているためだと推定している。メドウズが90点以上の高得点を与えている銘柄はふたつで、DRCのグラン・エシェゾーに対する97点(2007年試飲)、酒商ニコラが瓶詰めしたニュイ・サン・ジョルジュ・プルミエ・クリュ・クロ・ド・ラ・マドレーヌ(仕込んだのはドメーヌ・ジャック・フレデリック・ミュニエ)に対する93点(2015年試飲)である。
1980年代に始まった近代化前のスペインにおいて、孤高の存在であったベガ・シシリコ・ウニコの1948に対し、ブロードベントは「豊潤だが、舌にピリッとくる」というコメントを残している(1989年時点、ワイナリーでの試飲)。ブロードベントはこのワインについて星の数での評価を残していないが、他の優秀なバックヴィンテージと一緒に試飲された事実から、ワイナリー側の評価は高いのだと想像される。
この年に9銘柄のみ生産されたヴィンテージポートの中では、グラハムとテイラーがブロードベント5つ星だ。試飲年はそれぞれ2002年、1998年だが、優良年なら100年は軽くもつヴィンテージポートだから、今でもまだ現役バリバリだろう。
1948年について、ワイン評論家ロバート・パーカーが、100点満点をつけた銘柄はない。
さて、全体にグレーがかったこの年、「伝説のボトル」をひとつ選ぶのならば、シャンパーニュ・サロンの1948にしたい。地方全体としては、お世辞にもよいとは言えなかった年だ。それでも、秀でた作柄の年にしか生産されないサロンが、1948には造られた。サロンは、初ヴィンテージの1905から、最新ヴィンテージの2013までの約110年間に、44回しか瓶詰めされていない(本稿執筆時点の2025年春において)。サロンの公式ウェブサイトを見ると、これまでリリースされたすべてのヴィンテージについて情報が見られる。2013を見てみると、並んでいるのは、決して楽観的な言葉ではない。「5月、7月、8月に雹が降った。悪天候が、開花に影響した。8月末から9月初めにかけて、灰色カビ病が見られはじめたが、好天が戻ったおかげで繁殖が止まった。9月20日から摘み取られた果実は、一見したところでは健全だったものの、ボトリティスの影響が見てとれた」。終戦から1940年代の終わりまでの期間、サロンが生産されたのは1946、1947、1948、1949年と、比較的高頻度である。ただ、偉大な1945をスキップして、一般的な評価はせいぜい「凡庸」止まりの、1946と1948が含まれているのは興味深い。

サロンの公式ウェブサイトより。過去にリリースされた全ヴィンテージの解説がある © Champagne Salon.jpg
イギリス国王チャールズ三世に、フランスのマクロン大統領が2023年に贈ったのがこのサロンだ。1948は、チャールズ国王の生まれ年だから。ワイナリーに澱抜きしない状態で保管されていたボトルを、贈呈の直前に澱抜き(デゴルジュ)したらしい。デゴルジュ時の試飲では、状態は良好、まだ活力があって、糖度と酸度のバランスがよかったために、ドザージュは行なわれなかった。贈呈後、サロンのセラーに残ったのは、わずか9本だという。
3. 1948年ヴィンテージのまとめ
ワインは人間と同じく、成長してく「生き物」だ。幼少時に精彩を欠いた人物でも、長じるにつれて思わぬ才能が開花するのは珍しくない。1948は、そんなヴィテージのひとつだろう。今から探すのは大変、というか絶望的に困難だろうけれど、この年に生まれた人ならば、上述した優良銘柄は骨折りに値しそうである。サロンはまず見つかるまいが、オークションに出品されやすいボルドー五大シャトー、ブルゴーニュのDRC、ヴィンテージポートがレーダーに映るのを期待して、アンテナを高く張っておこう。めぐり会えたら、Lucky You!! だ。
【主要参考文献】
『世紀のワイン』 ミッシェル・ドヴァス著(柴田書店、2000)
『ブルゴーニュワイン100年のヴィンテージ 1900-2005』 ジャッキー・リゴー著(白水社、2006)
『ブルゴーニュワイン大全』 ジャスパー・モリス著(白水社、2012)
Jasper Morris, Inside Burgundy 2nd Edition, BB&R Press, 2021
Jane Anson, Inside Bordeaux, BB&R Press, 2020
Stephen Brook, Complete Bordeaux 4th Edition, Mitchell Beazley, 2022
Allen Meadows, Burgundy Vintages A History From 1845, BurghoundBooks, 2018
Michael Broadbent, Vintage Wine, Websters, 2006
Steven Spurrier, 100 Wines to Try before you Die, Deanter, 2010
Robert Parker’s 100-Point Wines, Wine-Searcher