連載コラム

連載コラム:伊東道生の『<頭>で飲むワイン 』 Vol.41 2014.09.12

Rothschildとワイン

≪La baronne Philippine de Rothschild, "grande dame" des vins de
Bordeaux, est morte ≫という記事が先月末、フランス中を駆け巡りました。
ボルドーの「グラン・ダーム」、大いなる貴婦人とでも訳しましょうか。
ワイン界には、この「グラン・ダーム」がいますね。ヴーヴ・クリコでは
商品名にまでなってしまいましたが。フィリピーヌ・ド・ロートシルト男爵夫人、
8月23日死去。80歳。意外に若い。もっと長生きしてもよかった気がします。

Rothschildは、各国語で読みが異なり、ドイツ語ではRothで区切って
「ロートシルト」、英語はRothsで区切って「ロスチャイルド」、
フランス語は「ロッチルト」なので真ん中の子音を一気に発音します。
固有名詞は、日本語は最近、わりと原語に即して発音させますが、西欧語では、
自国語の発音に引きつけます。

私が子供のころ、イタリアの中部の都市「フィレンツェ」は、
英語読みの「フローレンス」を採用していましたが、現在はイタリア語に
即しています。看護師のモデルにもなった例の女性は、ここで生まれたので
「フローレンス・ナイチンゲール」です。「フィレンツェ・ナイチンゲール」
では、ちょっと変ですね。イエスの弟子が、ラテン語でペトリュス、英語の
ピーター、フランス語のピエール、イタリア語のピエトロ、ドイツ語のペーター、
ロシア語のピョートルになるようなものです。

Rothschild家は、現在の家系としてはずいぶん新しく、初代のマイヤー・
アムシェルは、1743年から1812年。日本では、吉宗から田沼時代、
寛政の改革へとつづく時代。ヨーロッパでは、1756年の初めての国際的戦争と
いわれる「七年戦争」から、やがて革命へと突き進む大変革の時代ですから、
たしかに<最近の>人です。

そして彼の五人の息子、今でもワインのキャップなどに残る「五本の矢」は、
世界経済に多大な影響を及ぼし、ナポレオンと戦うウェリントンや、反動的
復古主義者のメテルニヒにも援助し、その時々の政治を動かします。
スエズ運河株の買収、ツタンカーメンの発掘のスポンサーにもなります。

Rothschild家初代マイヤー・アムシェルは、ドイツのフランクフルトで金融業
を始めます。その頃は、まだ統一されたドイツという国はなく、フランクフルト
やプロシアとか連邦の寄せ集めです。アムシェルは、ユダヤ人ゲットーに閉じ
込められてはいますが、当地の領主ヴィルヘルム公にコネをつくり、これが
元手となって激動の時代を生き抜きます。

彼の生きていた当時のフランスでは、フランス革命からナポレオン敗北後、
旧体制の王・貴族・教会の反動的復活が始まり、それにきれた人々が1830年に
七月革命を起こします。このころからようやくブルジョワジーの時代、
産業資本主義が繁栄し始めます。

同じ頃パリに亡命していたユダヤ人のハイネという有名な詩人がいますが、
彼の作品にもパリのRothschildがでてきて、革命が旧体制の首をちょん切った
ように、経済界で首をちょん切っていると、その経済革命のことを書いています。
ちなみにナポレオン後から1830年までを王政復古Restaurationといいます。
明治維新も同じ言葉でいいますから、「維新」の党も同じ名称です。

ですので、彼らは、明治の旧体制の復活を願っているとも読めるわけです。
もう一つ。アメリカ独立運動に活躍し、フランスワインの愛好家だった
(とくにラフィット)トーマス・ジェファーソンも同年の生まれです。
ジェファーソン所有の瓶は今でも残っています。オークションで世界最高値
$160,000がついた1787年産の瓶に書かれているラフィットの綴りが今とは違います
-Lafitte。現在はLafite。 ‘t’ が一つ多い。

Rothschild(パリ本家)がラフィットを購入したのも新しく、1868年、奇しくも
「明治維新」の年です。金融を営んでいたのになぜか、ワイン業に手を出した、
今から見れば先見の明があったということですが、当時は異論もあったようです。
もちろん、この背景には、第二帝政下の1855年のパリ万博でのボルドー・ワイン
格付けがあったわけです。ワインの価値、産業社会が進展していく中での商品とし
てのワインがはじめてクローズアップされてきた状況があります。

時はナポレオン三世の時代、この時代は共和制が頓挫して政治的にはかなり
ひどい時期ですが、産業だけはむやみに発展します。とはいえ、まもなく1870年
にはドイツ(プロシア)に戦争で負けてえらいことになります。

Rothschild(ロンドン)が、ムートンを購入したのは、実は格付け前の1853年
です。採算は十分考えていたことでしょうけれども、パリRothschildとしては、
この対抗意識の方が大きかったかもしれません。結果的に格付けではパリが一級、
ロンドンが二級。これからムートンの厳しい戦いが始まるわけです。

Premier ne puis, second ne daigne, Mouton suis.「第1級たり得ず、第2級を
甘んじる。しかし我がムートンなり 」-当時のエチケットに書かれます。
そこで活躍したのが、亡くなったグラン・ダームの父。

Rothschild(ロンドン)、バロン・フィリップ男爵の攻勢が始まります。
その一手としてシャトー元詰めを始めます。しかし、不幸なことに第二次大戦が
おこり、それまで以上のユダヤ排斥の波に巻き込まれます。シャトーは、
ナチにおもねったヴィシー政権に接収されてしまい、自身も拘束されます。

そして妻エリザベスは、娘のフィリピーヌの前でナチに連行され、強制収容所で
殺されます。幸いにも助かったので彼女は「グラン・ダーム」になれたわけです。
彼女がこのことについて発言したことは、聞いたことがありませんが
(あくまで私の見聞です)、心の奥底を思うと大変なことだったでしょうと推測
します。戦争の記憶がワイン界でも消えていきます。

Rothschild、バロン・フィリップ男爵は、戦後アメリカ人のポーリン・ポッター
と再婚。しかし、彼女にも先立たれます。フィリップは、1933年に「ムートン・
ダルマイヤック」と呼ばれる地所を購入し、「ムートン・バロン・フィリップ」
を名乗っていましたが、1976年に他界した夫人のために「ムートン・バロンヌ・
フィリップ」と改名しています。泣かせますね。

78年から80年代、かなりコスパのいいワインで、飲みまくりました。
それにかなり洒落たエチケットでした。いまでも何本か在庫を持っています。
1989年には、もとの「シャトー・ダルマイヤック」へと名前を変えましたが、
個人的には寂しい思いです。

"Je fais du vin a Latour et Lafite, mais mon c?ur est a Calon." "
セギュール伯爵の有名な言葉「私はラトゥールとラフィットでワインをつくって
いるが、私の心はカロンにあり」。バレンタインによく売れるハートマークの
シャトー・セギュールの17世紀のオーナーの言葉ですが、「ムートン・バロンヌ
・フィリップ」も亡き妻への心がこもったシャトーだったのでしょうね。
よく言われることの繰り返しではありますが。

Rothschild, Moutonムートン(ムートンは羊の意味です。キリスト教の迷える
羊です)が、一級に格上げされたのは1973年ですが、時の農相はシラク、
かなりのロビーイング、つまりお金が舞ったのでしょう。70年代後半から80年代
のムートンは、五大シャトーの中でも一番でした。マルゴーもラフィットも
ラトゥールも凌駕していました。ただ、オー・ブリオンはがんばっていました。
(これは個人的感想です。)

Premier je suis, Second je fus, Mouton ne change. 「我は今第1級なり、
かつては第2級なりき、されどムートンは不変なり。」
ただし、25年で葡萄ジュース、50年でようやく「ムートン」です。