連載コラム

連載コラム:伊東道生の『<頭>で飲むワイン 』 Vol.17 2012.09.12

ワインの名前と固有名詞

 前回は、エチケット(ラベル)のお話でしたが、今回は、それとほんの少しだけ関係します。
ボルドーのサン・ジュリアン村に、Château Saint-Pierre シャトー・サン=ピエールというワインがあります。このワインは、評価はそれなりに高く、フランスのワイン雑誌Revue du vin de France付録のガイド2012では、メドックで、二つ星です。三つ星は一級のシャトーであるラフィット、ムートン、ラトゥールとパルメをはじめとする、いわゆるスーパーセカンドですので、それなりどころか、かなり高評価です。でも知名度のせいか、例の漫画でとりあげられていないせいか、よく知りませんが、値段はかなり安くなります。ちなみにスーパーセカンドのうち、ラランドも二つ星です。
さて、このワインの名前のうちpierreピエールというのは、フランス語で「石」や「岩」を意味します。しかし、この場合、その前にSaint「聖」という言葉がついています。
Saint-Pierreといえば、イエスの十二使徒の一人、聖ペテロです。ローマ・カトリック教会の初代教皇で、バチカンの教会の名前にもなっているサン・ピエトロです。サン・ピエトロ以来、ローマ・カトリック教会というシステムができるのです。それが長年続き、ときに、それぞれ「特殊な」国家と対立する、「普遍」教会(カトリックとは普遍という意味です)というシステムとして今日まで続いています。

さて、ピエールは、イタリア語ではピエトロ、英語ではピーター、ドイツ語ではペーター、ロシア語ではピョートル、そしてラテン語ではペトルスPetrusです。最後のものは、前回、エチケットがニセかどうかで、話題にしたポムロールの最高級ワインの名ですね。ペトルスのエチケットをよく見ると、PETRVSとなっています。古典ラテン語では、UとVは区別がなく同じように、むしろVが優先して使われます。サン・ピエトロ寺院の内部に書かれている文字もUではなくVを使ったラテン語の文句が書いてあります。

シャトー・サン=ピエールという名を聞くと、フランス人は、ペテロをイメージし、同時に石をも思うでしょうかね。またフランス人は、名前をつけるとき、聖人からとってきた名前をつけます。ですから、ピエールという名前のフランス人もたくさんいます。デザイナーのピエール・カルダン、物理学者ピエール・キュリー、音楽家ピエール・ブーレーズなど。
 
ところで、ペトルスを、フランス語ではサン=ピエールというのは、「翻訳」でしょうか。こういうのは、地名にもあって、イタリアのトスカナ州のFirenzeは、英語でFlorenceです。ナイチンゲールは、ここで生まれたのでフローレンス・ナイチンゲールという名になった、ということを聞いたことがあります。本当かどうかは知りません。人名では、例えば、ドイツ語でBach(バッハ)というのは「小川」のことです。ドイツ語で、
  „Bach ist deutscher Komponist.“ 
というのは、(ドイツ語は、普通名詞も頭文字は、大文字です)、
 「小川さんは、ドイツ人の作曲です。」というニュアンスも含まれているわけですが、訳として、それが、正しいのでしょうか。この文でBachと言うのが、あのバッハではなく、ご近所に住んで親しくしている、「小川さん」レベルでの、売れない作曲家かもしれませんし。
 Naomiは、日本にもアメリカにも、フランスにもいそうな、女性の名前です。だからNaomiは、日本語にも英語にもフランス語にも属していないのかもしれません。まさに言語から離れた、独自な「名前」です。こういう事態を考え、固有名詞は翻訳できないとする考えがあります。

名詞を、普通名詞と固有名詞に分けた場合、おそらく、「数」として固有名詞は無限にありそうです。シャトー名やドメーヌの名前は数限りなくあり、それは増え続けている・・・。それに対して普通名詞は、数はかなり少ないでしょう。固有名詞を覚えていなくても、言語の使用に差し支えることはありません。シャトー・サン=ピエールという固有名詞を知らなくても、またボルドーやサン・ジュリアンという名を知らなくても「シャトー・サン=ピエールは、フランスのボルドーにあるサン・ジュリアン村のワインです。」という文は理解できます。
聖書や、ギリシア神話、古事記、日本書紀などは、神や人の名がえんえんとでてきます。みな固有名詞です。ややこしくてたまりませんが、ヘルメスや、オデュッセウスや、ヤマトタケルを知らなくても、一応読めますし、読んでいるうちに、その固有名詞の指す人物像がわかってきます。
 ところが、普通名詞はそうはいきません。普通名詞を知らないと、そもそも文の意味がわかりません。「ワイン」がどんなものかを、製法過程などを厳密に知らなくても、「ワイン」という言葉の意味が、それなりにわかっているので、文の理解が可能なのです。それがわかなければ、「シャトー・サン=ピエールは、フランスのボルドーにあるサン・ジュリアン村のワインです。」という文は、おそらくまったく理解不能ですし、深い理解を試みようとしても、その手がかりもないように思います。

 ここまで、とりたてて検討することもなく、さらっとシャトー名やドメーヌ名を固有名詞といって来ましたが、それでは固有名詞って何なのでしょう。ワインを飲みながら考えてみてはどうでしょう。