連載コラム

連載コラム:伊東道生の『<頭>で飲むワイン 』 Vol.04 2011.06.24

ワインは芸術か?と問われると、困ってしまいます。勝手に「ワインは芸術だ」と宣言することはできますが、世間で認知されるか、どうかは別問題です。では、「AKB48は、芸術家だ。」と言ってしまっても差し支えないでしょうか。この問いにマジメに答えようとすると、かなりの前提が必要です。

話を変えて・・・問題です。「通さん場」、「かべす」、「四段目」で三題話をつくってください。
これを見てピーンと来た人は、歌舞伎通です。
答えは、『仮名手本忠臣蔵』の四段目、「判官切腹の場」です。浅野内匠頭を擬した塩冶判官が、切腹する厳粛な場面で、菓子、弁当、鮨(頭文字が、かべす)を出方が、持ってきて食べながらの観劇が、ここだけ禁止されました。言い換えると、「かべす」を食べながらの観劇の方が通常だったのです。明治に入ると、新しい歌舞伎を上演するための「新富座」が開場します(1878年)。この劇場は、近代西洋建築で、椅子で座って見るもので、「かべす」が禁止されるようになります。この時、歌舞伎は、娯楽としての芝居から「芸術」に生まれかわり、役者は「河原乞食」から、「芸術家」に変貌します。観客は、歌舞伎を芸術として真摯に鑑賞し、役者は芸術作品としての歌舞伎の解釈と表現に努めます。

人間のありかたの究極を「美」とか「真理」に求めるのは、古代ギリシアからありますが、私たちが、普通にイメージする「芸術」とか「芸術作品」の起源をいつにするかというのは、難しい議論です。一つの有力な見方として18世紀後半というものがあります。artという言葉だけでは、技術も芸術も両方意味します。しかし、fine artsとして「美しい」という形容詞がつくと、はっきり「芸術」です。そうした言葉が使われ出したのが18世紀後半で、19世紀になるとartが、単数形で「芸術」の意味をもつようになります。パリのルーブル美術館も1793年8月10日に革命を祝して、「象徴的開館」がなされます。実際には1899年になって公衆に公開されますが。

もともと芸術は、宗教や権力と結びついています。教会や寺院、宮殿などがその例です。建築物そのものも芸術ですし、そこに置かれている装飾品や絵画は、芸術作品ですね。近代以降、そうした宗教や権力の地盤から解放され、はじめて「芸術概念」が生まれ、それを対象として学問的に論じる「美学」も18世紀後半のこの時期に成立します。バウムガルテンとかカントといった美学を論じる人たちが出てきます。カントは『判断力批判』という本を書いて(1790)、芸術を鑑賞する我々の態度を「関心なき満足」とします。芸術作品に対して、これの値段はいくらだろうとか、何が表現されているのか等、雑多な考えを捨て、心むなしく作品を受け入れることが、芸術鑑賞の態度です。さらに芸術を鑑賞するに当たっては、想像力と知性を同時に働かせることも重要です。単純に、「ああ、きれい」では感覚のレベルで終わってしまいます。想像力と知性を働かせ、言ってみれば、言葉で色々と表現してみることです。そうして芸術から、快という心地よい感情がえられるのです。

こうした考えは、芸術や芸術作品が、状況や文脈から切り離されて、それだけで独立した概念と捉えられることにつながります。その結果、「芸術性」がいかんなく発揮でき、鑑賞者も想像力と知性が発揮しやすい空間に、作品が置かれることになります。それが、美術館であり劇場です。完全に外部から切り離され、作品に真摯に向き合える場所です。教会の絵画が取り外され、美術館に置かれ、祈りの対象から「芸術」に変貌します。歌舞伎と全く同じように。芸術は何のために、と問われれば、「芸術は芸術のために」。それ以外に目的はありません。

ところが、20世紀になると、こうした芸術概念に異議を唱える人がでてきます。マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887-1968)は、その急先鋒です。彼は、リチャード・マットという名で、1917年にニューヨークのアンダパン展に『泉』という作品を発表します。それは、どこにでもある工業製品の男性用便器で、それに「R.MUTT,1917 」と署名しただけのものでした。美術館に置かれれば、芸術作品になるのだ、芸術作品とは、美術館に置かれているものだ、と言うわけです。

※Wiki参照

これ以降、芸術とは何か、という議論が噴出し、芸術作品自体が、「芸術とは何か」を問い続けるメタ芸術(芸術についての芸術)、コンセプチュアル・アートというかたちになり、芸術が、徹底的に知的営為になっていきます。カントの後にでてきたヘーゲルという哲学者は、芸術は、宗教ともども人間精神の現れと持ち上げながら、まだその姿が感覚的イメージの段階なので、概念(コンセプト)によって精神の真理を捉える「哲学」に、最終的に解消されてしまう、と主張しましたが、図らずも、その予言を実現することになりました。現代では、知的ではあっても、芸術fine artsからfine「美しさ」が消え、醜い、不快を覚えるようなアートまで出現します。

ところで、佐々木健一という人が、『美学への招待』 (中公新書)で、美術館ではなく、ミュージアムという日本語の言い方について、あれこれ言っています。オルゴール・ミュージアムやテディベア・ミュージアムというのは、しっくりきますが、テディベア美術館となると、旧来の美術館のイメージと食い違う。同じように、ある種のオルゴールやテディベアを、芸術作品というのには抵抗があるが、アートといってしまうと、「そうかも」となります。芸術作品が展示してあるのが美術館、アートが展示してあるのがミュージアム。これが現代人の感覚でしょうか。 

では、ワインは、近代的な意味での芸術でしょうか。それとも現代的なアートでしょうか。それとも単なる商品、農産物といったものに過ぎないでしょうか。それともアートに近い形での「工芸品」になる のでしょうか。ボルドーの格付けは、1855年のパリ万博からです。万博が、文化と製品の博物館から、商品の博物館であるデパートへの過渡期とするなら、文化的産物としてのアートでもあり、商品でもあるのでしょうか。ワイン・ミュージアムはしっくり来ますが、ワイン美術館は、どうでしょう。パリには、そういう名前のレストランがありますが。

ブラインド・テースティングがいつ始まったのかは、知りませんが、状況も料理も切り離し、ワインだけに対して、「関心なき」真摯な態度で向かう姿勢は、旧来の芸術に向かう態度を彷彿とさせます。テースティングが行われる空間も、なにやら美術館めいてきます。いや、むしろ芸術と学問の殿堂としてのプラトン以来の「アカデミー」でしょうか。そうなると、いきおい、作り手も「ワインは芸術だ!」と主張したくなるでしょう。おまけに「快」の感情もついてきますし。もっとも芸術論とか美学からみると、アナクロですが・・・。
さあ、あなたは、ワインを芸術と考えますか、アートと考えますか、それとも・・・。