創立20周年記念連続セミナー 第6回 楠田浩之氏「海外で醸造家になろう!①」
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 2007年6月29日(金)、ニュージーランドで活躍する醸造家の楠田浩之氏をお迎えし、「海外で醸造家になろう!」のセミナーが開かれました。氏は、アカデミー・デュ・ヴァン東京校で教鞭をとる楠田卓也先生の実弟で、2002年ヴィンテージから素晴らしいワインを生産されています。
 学生時代からワインの魅力の虜になっていた楠田浩之氏は、30歳の時に安定した職を捨て、造り手になることを決意しました。ドイツはラインガウ地方にある世界最高の栽培・醸造学研究機関のひとつ、ガイゼンハイム大学に留学し、ワイン生産者として必要な技能や知識を学びます。卒業研究で赴いたニュージーランドの優れたポテンシャルに魅せられ、同国北島のマーティンボロー地区に家族で移住したのが2001年のこと。徒手空拳で始めた小さな家族経営ワイナリー、Kusuda Winesは、その高い品質で初ヴィンテージから世界的な評価を受けるようになりました。
 セミナーでは、楠田浩之氏が醸造家を志されたきっかけに始まり、ニュージーランドの魅力、ワイナリー経営の現実、ワイン造りの秘密などなど、リアルなエピソードの数々を披露していただけました(以下に講演録をまとめています)。テイスティングしたワインは次の4種類。約70名の聴衆で満席になった会場には、将来醸造家になることを真剣に考えている方も数名いて、熱心に楠田浩之氏の話に耳を傾けられていました。

[1] 2003 Kusuda Wines L’inconnu
[2] 2002 Kusuda Wines Cabernet Sauvignon
[3] 2004 Kusuda Wines Pinot Noir
[4] 2003 Kusuda Wines Pinot Noir “C”
醸造家を志して・・・
 今日は『海外で醸造家になろう!』というテーマでお話させていただきます。自分の場合、超小規模、資本はミニマム、ニューワールドという条件・制約があるので、ある程度偏った話にならざるをえませんが、今後醸造家として独立を考えている方は参考にしていただければと存じます。なるべく客観的、ニュートラルに話させていただこうと思っています。
 私はごく普通のサラリーマンの家に生まれましたので、家庭がワインに関係していたわけではありません。単純にワインが好きになって、それで醸造家を志したというわけです。大学は文系で、卒業後はサラリーマンになりました。その後、縁があってオーストラリアで外務省の仕事を数年間することになり、その時に醸造家になる決意をしています。そのあと、ドイツのガイゼンハイム大学にわたって、最短の3年半で卒業しました。卒業後はすぐにニュージーランドに移住し、半年後にはリースですが自分の畑を手に入れています。ファースト・ヴィンテージは2002年で、そのワインがリリースされたのが2004年のことです。醸造家になる決意をしたのが30歳のとき、1994年のことですから、ちょうど10年で自分のワインができたことになります。今振り返ってみても、これ以上はどうやっても短くはできなかっただろうと思うぐらい、恵まれた10年だったように思います。
 醸造家を志した理由は、個人として自分がどこまで通用するかを試してみたかったから、ということになるでしょう。そのフィールドとして、大好きなワインを選んだわけです。日本人初のマスター・オブ・ワインを目指すことも一時考えましたが、一消費者としてモノづくりの世界への憧れをもっていたので、醸造家の道に進むことにした。また、私がずっと考え続けていた「ワインにとって熟成とはなにか、時間とは何か」といった、ワインについての根本的な疑問を解消するためには、製造の中に入ってしまうことが良いと考えたともあります。
ガイゼンハイム大学へ
 醸造家になるからには、世界のステージで勝負できるようになりたかったのです。そこで、世界のどこにいっても、「ああ、あそこで勉強したのか」と認めてもらえる大学を、卒業したほうがよいだろうと考えました。候補となった大学が、アメリカのUCデイヴィスや、フランスのボルドー、モンペリエ、そしてオーストラリアのアデレードです。英語はできたので、言葉の問題がないデイヴィスを最初考えていたのですが、外国人だと200万円ほど余分に授業料がかかるとわかって断念します。ガイゼンハイム大学は外国人でも同じ値段だったのですが、ドイツ語という言葉の問題がありました。しかし、学生時代からの友人のドイツ人がいて、その彼のサポートが得られそうだったので、最終的にガイゼンハイム大学に決めました。
 3年半の在籍期間中は、ワインの勉強だけをしていたわけではありません。私が卒業した日本の大学は文系の学部だったので単位の互換が一切認められず、数学、統計、情報処理、簿記といったワインと直接関係ない教科までとらないといけませんでした。
 皆様は、「ピノ・ノワールなら、赤ワインを造るならフランスの大学でしょ」と思われるかもしれませんが、それはそのとおりでしょうね。私はいまだに、赤ワインの色素についての知識が弱いです。しかし、ガイゼンハイムを選んだことを後悔はしていません。あまりほかの学校のことは知りませんが、ガイゼンハイムは栽培も醸造も両方しっかり学べるところがよかったです。天候から始まって土壌学、植生、醸造、化学、微生物学と総合的に学べたのです。今では変わっていますが、自分が入ったときには民間のワイナリーで入学前に1年間の実地研修が必要でした。その後規定が変わり、今は入学前に半年間、入学後に半年間の研修に、また後半の半年間の研修のうち3か月は国外のワイナリーで、というふうになっています。
卒業後ニュージーランドで独立
 ガイゼンハイムの卒業試験の準備を、自分は言葉に不安があったので、早めに始めました。普通は皆、3か月から半年ほどかけてやるのですが、自分は1年前から始めないといけないと思っていました。そこで実地での研究先として赴いたのが、マーティンボローのシューベルトのワイナリーで、オーナー醸造家のカイ・シューベルトとその時に懇意になりました。その後、卒業前にドイツでカイ・シューベルトと再会し、ニュージーランドに来ないかと誘ってもらったのです。それで、ニュージーランドに移住して、自分のワイナリーを開く決意をしたというのが大まかな流れです。
 ただし、自分のワイナリーといっても、まだ自前の建物があるわけではなく、シューベルトのワイナリーを借りて仕込みをしています。私を紹介した雑誌記事などで、シューベルトのアシスタント・ワインメーカーという肩書きが載っていることもありますが、最近は自分のワイン造りで手一杯で、生産に関してはまったくといっていいほど手伝っていません。
 ガイゼンハイム大学に入る前、オーストラリアに滞在していた時代にも、ニュージーランドに3度ほど旅行しました。いろんな本を見ると、マーティンボローによいピノ・ノワールがあると書いていたので、買ってきてシドニーで飲んだのです。そのとき、1992年のアタ・ランギのピノを飲んで、はじめてブルゴーニュ以外で「ピノの香のするワイン」だと思いました。その時に、マーティンボローという名前が私の頭にインプットされたのです。私は赤ならピノ、白ならリースリングが一番好きな品種で、涼しい土地が好きだということもあって、ニュージーランドへの興味が高まっていきました。ニューワールドの中でもニュージーランドは一番新しい産地のひとつで、本格的にワインづくりが始まったのは1980年代になってからです。自分がチャレンジをするのには、よい土地だと思いました。
 飲み手として選ぶなら、ニュージーランドよりもフランスというのは理解できます。ただ、造り手として考えた場合、フランスはつまらないのです。仮に誰かが莫大なお金を私にくれて、それでミュジニに畑を買って、そこで素晴らしいミュジニのワインができたとしても、たいして面白くないんですね。一方、ニュージーランドで目に入るのは羊と牛だけで、ブドウ畑は今のところ平地ばかり。マーティンボローでも、よい斜面がまだたくさん空いています。そこに何かの品種を選んで植え、クローン、栽培法、植樹間隔、醸造法などなど、すべてを自分で選んでワインを造り、そのワインが世界で認められたら、とても素晴らしいことだと思うのです。太陽と雨と土が、ブドウという植物、ピノ・ノワールという品種を通してワインに変わり、ボトルに詰められるというすべての流れを、日本人の私が理解できたという証明になりますから。その舞台として、ニュージーランドがよいと思ったのです。
 ニュージーランドという国は、ワイン産地として素晴らしいポテンシャルをもっています。ワイン造りというのは、とても一サイクルが長い仕事です。ブドウを植えてから、まともに果実が収穫できるようになるまで5?6年ぐらいかかります。ワイン造りはそれからで、製品ができて出荷されるのが1~2年後、その製品が評価されるまでにはまた半年、1年とかかります。だから、最初にブドウを植えてから、はじめて出来上がったワインの評価を受け取るまでには8?9年がかかるわけです。ただ、1ヴィンテージだけでは確実な判断はできませんから、2?3年ワインを造ってみて様子を見るのです。それで、結局「やっぱりこのクローンはこの土地に合わない、植え替えなければ」などとなると、また一からやり直しになります。つまり、一サイクル10~12年という長い時間がかかるんです。そういうタイムスパンのワイン造りという世界で、ニュージーランドがわずか15年ほどで世界のトップレベルにまで伸びてきたのは、自然のもつ力ではないかと。昨日まで羊を追いかけていたおっちゃんが、いきなりピノ・ノワールでワインを造って、それがなかなかに素晴らしいものになってしまう国、それがニュージーランドなんです。
 さて、雇われ醸造家としてキャリアを積んでいくのではなく、なぜいきなり独立を選んだかというと、これはもうギャンブルです。自分でやるという道をすぐに選んだのは、残された時間を考えたからですね。学校を卒業した2001年に自分は37歳で、そこから経験できるだろうヴィンテージはせいぜい30年。そう考えると、どこかに丁稚奉公して数年使うことには抵抗がありました。また、他のワイナリーで働くと、そこのやり方に良くも悪くも染まります。一度染まってしまうと、そこから抜け出すのは大変です。それよりも、最初から自分でやって自分で失敗するほうがよいのではないか、自分の独自性が育つのではないかと考えました。
 ピノ・ノワールをメインの品種として選んだのは、一番難しいといわれるブドウ品種で成功するのがよいと思ったからです。日本人という看板を背負って醸造家として勝負していくうえでは、ハードルが高いほうがいいというわけです。最近、フランスの位置づけが絶対的なものでなくなってきていると思いますが、ピノ・ノワールについては今もブルゴーニュが絶対的な高みにあります。しかし将来、「ブルゴーニュはこうで、ほかの産地はこう」という感じで、同レベルでの議論がなされるようになるといいなと思います。その意味で、ピノ・ノワールでブルゴーニュに匹敵しうる最右翼の産地は、ニュージーランドではないかと。ニュージーランド・ピノの特徴は、やはり果実味でしょう。とはいえ産地によって、もちろんワインの性格は違ってきまして、たとえばオタゴは「熱」が入り、マーティンボローは「熱」が少なく酸にキレがあるという感じでしょうか。真夏の最高気温は、オタゴでは35度や38度までいくことがありますが、マーティンボローではそこまで高くなることはありません。夏の熱は、果実味やタンニンのテクスチュアに影響しています。
投資金額について
 ワイナリー設立にあたってした投資は、それほど大きいものではなく、今のところ樽と発酵タンクいくつかぐらいです。私の場合はシューベルトのワイナリー設備を使わせてもらえたので、最初の年に自分で投資したのは新樽(1個10万円)ぐらいです。古樽を使うとブレタノマイセズ(腐敗酵母)の汚染が怖いので、初ヴィンテージはほぼすべて新樽にしました。そして次の年からは少しずつ、貯蔵用タンクや発酵用タンクを買い足していっています。ニュージーランドは牧畜が盛んなので、ミルク用タンクが安く出回っています。それを買ってきてワイナリーで使えるように、少し改造するのです。2トンぐらいのブドウが入る開放タンクだと、だいたい1リットルあたり1ドルぐらいの計算になります。
 さて、ワイナリーの経営を考える場合、サイズ(生産量)がほんとうに重要になります。こういう価格でこういう品質のワインをこれくらいの本数造りたいというプランが先にあれば、そこから逆算して、畑の面積、タンクの数、プレスのキャパ、樽の量などが決まってくるのでしょうけれど、私の場合はナイナイ尽くしのところから、少しずつ積み上げていくような形になりました。国によっても全然条件は違うでしょうし、ニュージーランドに限っても、マーティンボローがギズボーンかでも土地の値段は大きく変わります。すでにブドウが植わっている畑の場合は、品種によっても値段が変わるでしょう。
 畑でかかるコストは、苗木、ポスト、ワイヤー、灌漑設備などの積み上げになります。灌漑はニュージーランドではとても重要で、ブドウに水をあげるというだけでなく、霜害対策で使うスプリンクラーにも用います。ブドウの苗木が一本500~600円ぐらいで、植え付け密度によって本数が変わります。ニュージーランドで一般的な植樹間隔が2メートル×2メートルで、この植え付けだとヘクタールあたり2500本になりますが、私が最初にリースした畑はフランス狂のオーナーだったためにヘクタール7000本の植え付けでした。
 ニュージーランドは、今世界で一番畑が急激に増えている産地です。2000年から2006年までで倍になっているのですが、急激に成長しているために、いろんなところにひずみが出ています。畑の値段は条件次第で大きく変わり、こないだ銀行が差し押さえて、競売に出されていたマーティンボローの畑は、リースリングとピノ・ノワールが植わっていて約12ヘクタールの面積がありました。しかし、なかなか買い手がつかず、結局4000万円ぐらいでしか売れませんでした。これでは、売り手は最初の土地を取得した値段に毛が生えたぐらいの金額を回収するのがやっとでしょう。一方で、私が最近買ったシラーの1ヘクタールの畑は、さっきの畑の10分の1以下のサイズですが、値段はあまり変わりません。ただし、私の畑は立地が非常にいいのです。ブドウ畑としてというよりも、単に不動産としての価値が高いということなのですが。また、シラーという品種は、ニュージーランドでピノ・ノワールの次にブームになると言われているのですが、面積はまだまだ小さく、希少価値があります。加えて私の畑のシラーは、購入時で樹齢15年と、ニュージーランドの畑としては最も樹齢が高いもののひとつでした。値段は高かったのですが、1ヘクタールの畑というのは一人で管理するには最高の広さでして、「こんないい条件の畑が売りにでることは、今後なかろう」と考えて、思い切って購入しました。
気になる収支は?
 ニュージーランドは世界中のワイン産地の中で、おそらく最も気候が厳しいところです。今年の収量は、なんと平年の8割減でした。過去最悪レベルの春の遅霜と、過去20年で最も気温の低い12月(開花期)というダブルパンチに見舞われたのです。それ以前でも気候条件が厳しかった年は珍しくなく、2005年はピノ・ノワールの収穫の1週間前、3月31日だけで200ミリもの雨が降りました。これも30年に一回の大雨で、この年は結局ワイン造りをあきらめています。2002年は、マーティンボローとしては収量が比較的多い年で、約1万本のワインが造れました。2003年は乾燥した気候の影響などがあって生産量が減りましたが、6000本ほどは生産できています。しかし2004年は、真夏に「半世紀に一度」という大雨(400ミリ)が降ったため、生産量が激減しました。厳しい選果をしてなんとかワインは造れたのですが、できあがったのは1500本ほどです。2005年は、先に申し上げたように雨のせいでワインをまったく造れていません。次の2006年はなかなかいい年で、8000本ほどのワインができたのですが、今年(2007年)は平年の8割減という結果です。とにかく、年ごとの生産量のアップダウンが激しすぎて、今のところ収支の設計もなにも……というのが正直なところなんです。(売れるのに)売るものがない、というのが、目下販売面での一番の悩みです。
 ワイナリーにとって一番身入りがいい販売ルートが、セラードア、すなわちワイナリーを訪問した個人客に直接販売するケースです。しかし、セラードアだけで全量さばけるワイナリーなどはほとんどなく、どこのワイナリーも通常は流通業者の力を借りてワインを売っています。ワイナリーで個人客に1本60ドルで売っているワインの、流通業者への卸価格は35ドルがいいところです。ただし私の場合は、日本への販売が少し特殊なルートになりますので、ほかのワイナリーよりは利益率が少し高めになっています。それでなんとか、ひどい年には1500本というような本数でもなんとかやっていけているんです。
 ところで、「ワインの値段をどうやって付けるのか」という質問をよくもらうんですが、最初に自分のワインに値段を付けたときは、随分ビビリましたね。聞く人聞く人みんな違う答えを返しますし。印象的だったのは、「最初につけた値段を上げていくのは難しい」と言う人が多かったことです。下げるのは簡単なんですね。そんなことを念頭に置いて、あとは自分がどの品質レベルのワインを造ったつもりかを考え、周りの高品質指向のワイナリーの値段を考慮して、ワインの値段を決めました。
 私が造るワインのうち、8割は日本へ輸出され、残り2割のうちほとんどがニュージーランド国内で消費されます。私みたいなナイナイづくしのワイナリーでは、海外でマーケティングするための費用を組めないので、当面は輸出なんてとんでもないという感じですね。ただし、海外からの問い合わせは結構あります。2002年のシラーが、エア・ニュージーランドの機内誌に取り上げられるなど、メディアで紹介されたせいもあるでしょう。エア・ニュージーランドの記事は、マスター・オブ・ワインのボブ・キャンベルが選ぶ、ニュージーランドのトップ10シラーというもので、日本以外のメディアで私のワインがきちんと取り上げられた最初の記事でした。
 ただ、メディアで取り上げられたからといって、売上げが急に増えたりするわけではありません。とはいえ、メディアの評価は自信につながりますね。海外に出て、普通日本人がしいないような特殊な仕事をしていることを考えると、普通以上に自分に自信が持てるようにならないと、潰れてしまうような気がします。
 現地で、近所付き合いをしているワイナリーはさほど多くないんですよ。マーティンボローでも今は50ぐらいのワイナリーがあるんですが、知らないところも少なくありません。しかし、直接私のことを知らない人も、今では私のことを「よくわからないアジア人」とは思っていないでしょう。新参者につきまとう偏見を取り除いてくれたという意味でも、メディアの評価はありがたかったですね。
醸造家志望者へのメッセージ
 海外で仕事をするには、心身ともに健康であること、抵抗力があることが重要です。海外ですから、単に生活していくだけでも、日本よりもずっと大変ですから。言葉のセンスも大事ですが、言葉を超えたところでのコミュニケーション力がとても大事になります。このコミュニケーションができない人は……厳しいだろうと思います。家族のいる方は、家族の将来も考えなければなりませんし、パートナーの協力は不可欠です。以前、世界的な大企業に勤めている人が私のところにきて、会社をやめてワイン造りの勉強をしたいと相談してきたことがあります。結局彼は随分努力したにも関わらず、奥さんの理解が得られずに夢を断念しました。別れてまでやるかどうかは、個々の考え方次第ですが……私の場合は家内が協力してくれました。詳しい話をすると、皆さんたいてい「あんたよりも奥さんがエライ!」と。そのとおり(笑)。身内だけでなく、友人、知人、偶然の出会い……私はいろんな人に助けられることが多いですね。感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思っています。
 自分のやりたいことを、始める前にある程度イメージできるかどうかというのも、とても重要だと思います。私の場合、今振り返ってみるとと、なんとなくイメージしていたことが、そこそこの確率で実現できているかとは感じています。ワインだけでなく、キャリアの流れについても、イメージの通りです。まずはイメージする力と、そこに向かっていく努力。運もとても重要です。どんなワインが出来るかはともかく、とにかくやるしかない、失敗してもしょうがないと考えていました。そう考えながらも、「いいワインができるんじゃないか」という、期待に近いぼんやりとした自信はあったようにも思います。
 もちろん、「あなた今まで言ったいろんなことを、最初からあれこれ考えた上で決断したのか?」と聞かれると、答えはノーですよ。仮に私が10年前にこのセミナーを聞いていたら、醸造家になるのを断念したかもしれません。細かいことはいろいろありますが、最終的には「自分はやるんだ」という意志が大事で、その意志の力を維持できるかどうかです。それさえできれば、個人差はあるかもしれませんが、どなたでもかなりのところまではいけるでしょう。イメージ力も、意志の力とちょっとつながっているのかなとも考えています。
 あと、化学の知識は、醸造家になるのなら重要です。人によって化学と合う/合わないはあるでしょうけれど、合わない人(造り手)が化学を否定するというパターンが、最近多いんじゃないかなと思います。そういう人たちを否定するつもりはありませんが、化学の勉強はしたほうがいいです。
質疑応答
Q:ご自身のワインを採点するとしたら、今で100点満点中何点ぐらいでしょうか?
A:いろんな要素を総合すると、全体として7?8割の点数はあるかなあと思います。人のワインを飲んでいるときに、素直にノドを通るものが最近は少ないのですが、自分のワインはノドを素直に通るのです。100点ということはありませんが、そこそこではないかと。今後、点数を上げていくためには、やはり畑がポイントになるんじゃないかと思います。一定レベルまでは、テロワール、特に気候が重要です。マクロからメソぐらいまでの気候が、ワインの性格を決定し、年ごとの天候が、その年のワインの品質を左右します。そのベースの品質をさらに高くしようとしたときに、人がどうやるかが関係してきます。言い換えれば、ワイン造りの最終局面では、人の果たす役割がとても大きいとも言えるでしょう。

Q:ワイン造りで、何か特別なことをしていますか?
A:私は仕込みの際にルモンタージュを沢山するのですが、ニュージーランドでピノを造るワイナリーでは、ルモンタージュをしないところがほとんどです。アタ・ランギのようにやっているワイナリーでも、発酵開始前に酵母に酸素を供給するために行なっているようなケースが多くなります。私のように発酵中のルモンタージュをやっているところはないのですが、それは酸化を恐れているからです。ピノ・ノワールは、たしかに酸化に弱いんですよ。ただ、私は1999年にブルゴーニュで仕込みをしたのですが、そこのワイナリーは全房発酵で仕込みをし、ルモンタージュをたくさんやっていました。全房では果梗から青いタンニンが多くでてくるので、それを丸くするためのルモンタージュでした。
ルモンタージュの効果はいろいろあるのですが、私が重視しているのが、まず発酵温度の調整です。香りの質も、ルモンタージュをすると変わります。実際に作業していると、重い香りが軽い香りに変わっていくのがわかるのです。抜けるべき香りがルモンタージュによって抜ける、という感じですね。香りが最終的に奇麗になるんです。私のワインとほかのワインの香りが違うとすれば、その差はルモンタージュなのかな、と思います。ただ、2002年はちょっとやりすぎたかな、と思いましたので、それ以降は少し減らしています。
ルモンタージュをすれば、酸素がたくさんワインに混ざりますし、理屈の上では熟成が進みます。ただ、私の2003年のピノは、同じ年のほかのニュージーランドのピノのよりも熟成の進み方が遅いように思っています。あと2?3年すれば、自分の中でこの問題に対する答えがでるかと思いますね。科学的ではないかもしれませんが、「先に酸化させておくほうが、安定する」という言い方をする人にもあったこともあります。
私が(ピノ・ノワールで一般的な)ピジャージュをそれほどしないのは、ピジャージュが物理的なプレッシャーを果実に与えるからです。発酵初期はいいのですが、発酵後期に果実が柔らかくなってきたときに、プレッシャーを与えるのはいかがなものかと。私がピジャージュをするときは、なるべく優しく、短めにしています。しっかりピジャージュすると皮がすり潰されたような感じになりますが、私の場合は皮がしっかり残りますね。同じ設備でピノ・ノワールを造っているシューベルトは、ピジャージュで仕込むのですが、私のワインには絶対に出ない独特の香りがありまして、あれはピジャージュによるものなんだろうなと考えています。水だしで濃く濃くだした紅茶を……薄めたような香りで(笑)、私はあまり好きじゃないんです。
ほかで特別の作業というと、選果ですね。ありがたいことに、私にはサポートしてくださる方が大勢いるので、徹底した選果ができています。徹底した選果をするには、やはりベルトコンベア上ではなくて、畑で収穫するときに厳しく吟味することです。ただ、そういう収穫作業をやると、通常の10倍の時間がかかります。ワインの製造コストのうち、大きいもののひとつは収穫のコストですから、選果を徹底することは高くつくことではあるのです。

Q:畑の選果に時間がかかるということですが、結果として収穫が遅くなり、果実が熟しすぎるというデメリットはないのでしょうか?
A:それは天秤ですね。その天秤の割合というか、分銅の重さの具合を決めかねていると言いましょうか、今はまだまだ勉強中という感じです。悪い果実を取り除けば取り除くほどワインは良くなるのですが、収穫を遅らせることのマイナスもやはりありますから。あとは、収穫時期の天候の推移にもよりますしね。ちょっと早めに収穫を始めて、ちょっと遅いかなというタイミングで終わるのが目下の理想です。もちろん、誰かが200人ぐらいのボランティアを連れてきてくれれば、収穫は一日で終わるのですが(笑)。

Q:ピノ・ノワールというブドウ品種について、一番苦労していることを教えてください。
A:まず病気にかかりやすいことですね。そして、クローンによっても違いますが、枝の伸び方が汚いので、直すのに苦労します。とにかく、夏の畑作業がブドウ栽培では一番大変です。病気、害虫への対処をしながら、ガンガン伸びるブドウを思うような形に整えていく、伸びすぎたら止める、これには苦労します。
今年の4月からは特に、畑でブドウの枝の伸び方を徹底してコントロールしています。いかに無駄なく奇麗に枝を伸ばすか。ニュージーランドは風が強いから、奇麗に枝を伸ばすのが難しいのです。最近すごくうれしかったのは、ヴェレゾンの頃に畑で作業をしていたら、突然通りがかりの人に声をかけられて、「お前の畑があまり美しいから、祝いの言葉を言いたい」と(笑)。その人はアメリカ人で、オレゴンとマーティンボローにピノの畑を持っていると言っていました。こういう嬉しさは畑仕事をやった人間しかわからないでしょうけれど……。

Q:醸造家としての目標や今後の計画について教えてください。
A:駆け出しの頃は、まともなワインが造れるかどうか、ということしか考えていませんでしたね。今は、これから何年かたった時に、ブルゴーニュとニュージーランドのピノが並列で語られるようになっていて、ニュージーランドではマーティンボロー地区がよいとされていて、マーティンボローの代表がクスダワインズだと……。そんなふうに、この国・地方の「スタイルの確立」に貢献できたらいいなあと思っています。
次の大きなチャレンジは、自前のワイナリーを持つことでしょう。今、いろんなところで「サクセス・ストーリー」などと言われていますが、ワイナリーもないのにまだまだとんでもないって感じです。自前のワイナリーを持つともなれば、設備投資も大変ですし、一人でできる作業量にも限界があるでしょうから、人を雇うという話にもなるでしょう。ピノ・ノワールだけでなく、リースリング、ソーヴィニヨン・ブラン、ピノ・グリなどの品種で白ワインも造るようになり、全部で2?3ヘクタールの畑できちんと回るシステムをつくりあげられたら、なんとか一人前かなあと思っています。

Q:一年のうちに、肉体労働が占める割合はどれぐらいですか?
A:ブドウ畑を例にとると、9月のアタマに芽が出て収穫までが7か月。その間はずっと畑にでます。畑での仕事というのは無限にあるものですが、休みも必要ですし、ワイナリーでの仕事もありますから、その期間も必ず毎日畑に出るというわけではないですが。あとは冬の剪定がありますから、農作業は一年12か月のうち、8か月から10か月ですね。今年は、1ヘクタールのシラーの剪定をぜんぶ私一人でやりましたが、前年までの剪定がいい加減だったので矯正にすごく時間がかかって、ほぼ2ヶ月間かかっています。ほかのワイナリーを見ると、醸造家本人がキツい畑仕事を自分ですることは少ないんですけどね。みんな、誰か他の人に頼んでいます。

Q:楠田さんご自身が考える、日本食との相性をそれぞれのワインについて教えてください。
A:料理との相性は飲み手が考えることなので、造った人間としてのオススメはとくにありません。もちろん、「このピノには仔羊のグリルにマスタードを添えて」なとと言うことはできますが、料理がアツアツのときと、冷めて脂が固まってきたときとでは、相性が変わるはずです。相性とはそれぐらい微妙なものですから、ヴィンテージの違い、サービスの違い、栓を抜いてからの時間の違いなどでも、すべて変わってしまうでしょう。そんな世界について、ワインを造っているからといって断定的なことは言えないと思いますし、飲む人の好みでいいんじゃないかと考えています。

Q:個人的にフェノレの香り(腐敗酵母臭)が大嫌いです。フランスのワインでは結構フェノレが多いのですが、楠田さんのワインにはまったく感じません。そのあたりについてのご意見を聞かせてください。
A:私のワインにはフェノレの香りは一切ありません。これは調べていますから、確実です。たしかにフランスワイン、特にローヌのワインはフェノレの香りがするものが多いです。わずかに香るぐらいなら、ワインに複雑さを加える要素になりえるとは思いますが、個人的には一切許容していません。造り手としては、あってはならないものだと考えています。フェノレの原因物質は、代表的なものだけでも5つあるのですが、その香りは品種・産地に関わらず共通のものです。そうした香りがワインの中で目立ってしまっては、例えそれが良い要素だったとしても、テロワールの個性や、土地と品種の相性などの表現は損なわれてしまいます。

Q:フランスではすごくいいワイナリーでも除梗しないところがあります。除梗についてどう考えていますか?
A:除梗については今も勉強中です。私が修行したブルゴーニュのワイナリーは、一切除梗しないところでしたが、それはひとつのスタイルで、「アリ」だと思っています。ただ、それはブルゴーニュの環境においての判断で、そのままニュージーランドにもってくることはできません。私も実験はしていまして、2004年は100パーセント除梗していますが、2003年については90パーセントぐらいです。限られた経験の中で申し上げると、果梗の使用は10?20パーセントぐらいまではいいのですが、25パーセントを超えるとえぐみが出てきます。今のところは、少ない比率から果梗を使いはじめ、少しずつ増やしながら様子を見ているという感じです。果梗の入れ過ぎには要注意ですね。理想論は、タンクがいくつかあって、そのうち一本は2割、3割果梗を残してみるといった実験の仕方ですね。私は醸造中ほとんどワインに手を加えないのですが、手の加え方として一番面白いのは果梗の使用だと思っています。あと、プレスのタイミングの調節も、今の醸造についてのテーマですね。
小山竜宇さんと
楠田氏: 今日会場には、私と同じニュージーランドで醸造家としての勉強をされている、小山竜宇(たかひろ)さんがお見えになっています。小山さんは、南島クライストチャーチのリンカーン大学で栽培・醸造を勉強してきて、つい最近卒業されたばかり。私(楠田)の決断として大きかったのは、醸造家になる勉強を始めるということと、卒業した後どうするかでした。今、小山さんは一つ目の決断とそれに続く日々が終わり、まさにこれから二つ目の決断をするところです。彼にそのあたりの話を聞いてみたいと思います。 小山氏: 私も今37歳で、卒業のタイミングが楠田さんと同じです。私は、今もマウントフォードというワイナリーでアシスタント・ワインメーカーをしているのですが、2年後、3年は同じワイナリーで仕事を続け、そのあと独立を考えています。楠田さんは、最初から独立を考えられたということですが……。
楠田氏: 小山さんの場合は、マウントフォードというすばらしいワイナリーのポストが見つかったわけですが、そういう良い「縁」を見つけるのが大変だと思ったことはありますね。中途半端なワイナリーで、中途半端なやり方に染まりたくなかったというか。人のワイナリーで働いて得るものと、時間のロスとを天秤にかけたときに、私は自分でつまずきながらでも自分進むほうが、メリットが大きいかと考えたのです。
小山氏: 私の場合は、まだまだいろんなワイナリーで修行したいと思いますし、実際にその予定もあるのですが、楠田さんの場合は、「もう(修行は)いいや、自分でやろう」と思われたんですか?
楠田氏:  「もういいや」という感情はなかったですね。やはり、すごく不安でしたよ。ただ、周りにカイ・シューベルトというとりあえず聞ける人がいたので、なんとかやれたんでしょう。
テイスティング・ワインについて
[1] 2003 Kusuda Wines L’inconnu
このワインの名前「ランコニュ」は、英語のUnknown、つまり「知られていない」という意味です。現地でシーベルと呼ばれているハイブリッド品種の一種のようなのですが、素性が完全に特定できているわけではないので、「シーベル」という品種名の表示が許されていません。鋭い方は、ハイブリッド特有のフォキシー・フレイヴァーを香りから拾うかもしれないですね。この香りが大好きという人もいるので、好みの問題ですが。

[2] 2002 Kusuda Wines Cabernet Sauvignon
このカベルネ・ソーヴィニヨンは、最初の年に造ったワインのひとつです。ピノ・ノワール用の設備、技術を少しアレンジして造ったワインとしては、なかなかの出来だと思っています。いくらガイゼンハイム大学で勉強したといっても、実習でちょこちょこやっていたぐらいで、実作業に熟達するわけではありません。最初の年、一番苦労したのはトラクターの操作ですね。ずっと日本のオフィスで座って仕事をしていた人間が、いきなりトラクターなわけですから、怪我もしましたし、失敗もしました。そういうド素人が、無我夢中でつくったワインがこのカベルネです。運と、ニュージーランドの力のおかげだと思いますね。

[3] 2004 Kusuda Wines Pinot Noir
[4] 2003 Kusuda Wines Pinot Noir “C”
2003年は、当時リース契約していた畑のブドウなので、畑仕事はすべて自分でしています。2004年は、次にお話しする理由で2003年までリースしていた畑のブドウが使えなかったので、カイ・シューベルトの畑のブドウを買っています。大きな違いは、2004年は樹が若く(5年目)、2003年はそこそこの樹齢(16年目)であることです。2003年のブドウについては、灌漑もしておらず、自根のブドウです。新樽比率は2004年が6割、2003年は8割以上です。2004年と2003年はヴィンテージとしては対照的な年で、2004年は大雨が降りました。2003年は日照りが続き、干ばつに近い年でした。収穫時期については、2003年は早く3月中、2004年は5月までかかりました。
2003年までリースしていた畑については、オーナーが突然、「来年から別の人に貸す」と一方的に言ってきたのです。私も日本では多少法律をかじっていたので、「騒げば、法的には自分が勝つ」とは思いました。しかし、人口1000人の小さな村で、新参者のアジア人がぎゃあぎゃあ騒いで、仮に畑を取り戻せたとしても、オーナーや新しく借りる予定だった人の面目は丸つぶれになります。長期的に見ればマイナスが多いと思って、結局諦めました。

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