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パリ対決の様子。 取材中のジョージ・M・テイバー(左)。 |
1976年、世界中のワイン関係者を震撼させた事件が起きました。アカデミー・デュ・ヴァンの創始者スティーヴン・スパリュアが主催したブラインド・テイスティングにおいて、まったく無名のカリフォルニアワインが、バタール・モンラッシェ、ムートン、オー・ブリオンといった最高のフランスワインを打ち破ったのです。米国『タイム』誌のジョージ・テイバーは、有名なギリシャ神話の挿話になぞらえて、『パリスの審判 Judgment of Paris』という記事をすぐさま発表します。テイバーの記事は、大きな興奮が込められた次の文章で始まっていました。「考えられないことが起きた。カリフォルニアがフランス勢をことごとく打ち倒したのだ……」 この考えられない事件が引き金となり、その後世界中のワイン業界は激動の時代に突入していきます。
注)パリスの審判 パリスの審判は、トロイア戦争の発端とされるギリシャ神話の一挿話。イリオス王プリアモスの息子パリスが、ヘラ、アプロディテ、アテナの三美神のうちで誰がもっとも美しいかを判定させられたことをいう。ルーベンスほか、さまざまな画家が「パリスの審判」を題名とした絵を描いている。 |
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文:立花 峰夫 Text by Mineo TACHIBANA
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1970年、29歳だったスティーヴン・スパリュアは、故郷イギリスを離れ、パリへとやってきました。「若く、むちのようにしなやかな体と柔らかい髪の持主。上流階級独特のどもりがあり、物腰はけだるかった」という当時のスパリュアは、フランスの地でワインビジネスを興すことを目論んでいたのです。 スパリュアは、シテ・ブリエ通りにあった開店休業中の酒屋、カーヴ・ド・ラ・マドレーヌの権利を買い取り、高級品に特化したワインショップへと改装します。店の近隣には、英語を母国語とするビジネスマンたちが多く働いており、スパリュアの店はそうした「外国人」たちでにぎわうようになりました。スパリュアはやがて、店内でちょっとしたワイン講座を始めます。「ワインについて教えてほしい」という常連客のリクエストに応えてのことでした。 そうこうするうちに、店の隣にあったビルが空いたので、スパリュアはそこで本格的なワイン学校を始めることにします。一般のワイン愛好家を対象とした学校は、パリでも始めてのものでした。スパリュアは、この学校を「アカデミー・デュ・ヴァン」と名付けます。1972年8月にスタートしたパリのアカデミー・デュ・ヴァンは、当初英語を話す人々を対象としていたため、授業もすべて英語でした。しかし、やがてフランス人たちのあいだでもアカデミー・デュ・ヴァンが話題となり、フランス語の授業も始まりました。 アカデミー・デュ・ヴァンの開校からまもなく、パトリシア・ギャラガーというアメリカ人女性がアカデミー・デュ・ヴァンに加わります。ギャラガーはワインについては素人でしたが、素晴らしい早さで知識・技能を身につけ、スパリュアにとって欠かすことのできない片腕へと育っていきました。 二人は、アカデミー・デュ・ヴァンを盛り上げるためのプロモーション企画を熱心に相談し、次々に新しいイベントを仕掛けます。たとえば、生産者を招いてのボルドー五大シャトーの比較試飲会。今日ではごく一般的な定番企画ですが、フランスでこうした会を開いたのはスパリュア/ギャラガーが初めてだったといいます。当時の二人は、ビジネスを成功させるためというより、自分が楽しむために仕事をしていました。ジョージ・テイバーがパリ対決の30年後に出版した書物『パリスの審判』(葉山考太郎訳、日経BP刊)には、この頃の二人が次のように記されています。 「……二人の会話は、ギャラガーから『こうしたら面白いんじゃないかしら』と切り出すことが多いらしい。これに対しスパリュアは、『そりゃすごい。ぜひ、やろうじゃないか』と応じるという。二人には名声や金はどうでもよかった。二人は、心の底からワインを愛し、自分達の楽しみのために働いた……その頃、カーヴ・ド・ラ・マドレーヌとアカデミー・デュ・ヴァンでは、面白さが命だった」 |

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そして1976年がやってきます。この年は、アメリカ独立200周年にあたっており、あれこれと記念イベントが予定されていました。スパリュアとギャラガーは、自分たちも何かワインをテーマにしてアメリカを祝うイベントができないかと考えます。そうして思いついたのが、カリフォルニア産のワインをフランスワインと比べて試飲するという企画でした。フランスが200年前にアメリカの独立を助けたように、スパリュアたちもアメリカのワインを応援しようというわけです。もちろん、最大の動機はいつもの通り、「面白そうだから」ではあったのですが。 当時のパリでは、カリフォルニアワインなど存在していないも同然でした。その頃、ワインの品揃えがもっとも充実していたのは、高級食料品店のフォションでしたが、そこで売られていたカリフォルニアワインはわずかに2種類。いずれもスクリューキャップ栓の安物でした。ワイン業界で働くプロでも、カリフォルニアワインを口にしたことがあるものなどほぼ皆無だった時代です。高品質なワインがアメリカに存在するなど、誰も想像すらしていませんでした。 しかしスパリュアたちは、カリフォルニアの地で優れたワインが造られていることを知っていました。故国に帰省したアメリカ人の顧客たちが、お土産にそうしたワインを店に持ってきてくれていたからです。アメリカにもなかなかのワインがあると、独立200周年の年に世間に知らしめることはいいアイデアだと思われました。うまく話題になってくれれば、ワイン学校とショップの宣伝になると、スパリュアたちは考えました。 二人はイベントの形式を次のように定めます。
◆赤ワインと白ワインをそれぞれ10本ずつ選び、審査員たちにブラインドで試飲させて点数をつけさせる。 ◆赤白それぞれに、カリフォルニアワインとフランスワインを含める。 ◆ブドウ品種を揃え、赤はカベルネ・ソーヴィニヨン、白はシャルドネ。つまりフランス勢は、ボルドー地方の赤と、ブルゴーニュ地方の白。 ◆試飲本数は、赤白それぞれカリフォルニアワインが6本に、フランスワインが4本。
この中で、カリフォルニア勢とフランス勢の本数については、のちに「統計的に不公平で、カリフォルニアが最初から有利になっている」という異議申し立てを生むことになりました。たしかに、公平を期すならば5本ずつにすべきところです。スパリュアがカリフォルニアを多くしたのは、圧倒的に劣勢だと思われた挑戦者に対するある種の「配慮」が働いていたからでした。また、企画の第一目的は、「アメリカにもよいワインがある」ことを世間に知らしめるというものでしたから、カリフォルニアの本数を多くするほうが、その意図にかなっているとも思われました。企画者当人も、この時点では「意外な結末」が待ち受けているとは夢にも思っていなかったのです。スパリュアは後日、次のように語っています。 「カリフォルニアワインが勝つとはまったく思っていませんでしたし、正直そうなってほしいとも思っていませんでした。そうですね、2位から4位ぐらいにカリフォルニアワインが入る、それぐらいでいいと考えていました。実際、試飲に出すカリフォルニアワインを選ぶ段階で、思いのほか品質が高いことに驚いた私は、対戦相手となるフランスワインの顔ぶれを考え直したのです。ムートンやオー・ブリオンといったワインを選んだのは、カリフォルニアワインが、まかり間違っても勝たないようにするためでした」 当時、カリフォルニアワインがフランスワインに挑むというのは、いうならば田舎の中学の野球部が、ニューヨーク・ヤンキースと試合をするようなものです。結果のわかりきった戦い。それでもヤンキース側は、一軍のスター選手(ムートン、オー・ブリオンなど)まで投入して、万全を期しました。審判(審査員)もすべて、ヤンキースの息がかかった連中(フランスのワイン業界人)で固められていました。試飲本数が多少多かったとはいえ、カリフォルニアの勝利は何重にも禁じられていたのです。 |

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イベントの審査員としてスパリュアが選んだのは、著名ワイナリーやレストランのオーナー、ワイン雑誌の編集長、ワイン行政の要人など、フランスのワイン業界を代表する蒼々たる顔ぶれでした。
ピエール・ブレジュー: AOC委員会の統括検査員
クロード・デュボワ・ミヨ: グルメ雑誌『ゴー・ミヨ』誌の販売部長。
オデット・カーン: ワイン雑誌『ルヴュ・デュ・ヴァン・ド・フランス』誌の編集長
レイモン・オリヴィエ: パリの三ツ星、ル・グラン・ヴェフールのオーナー・シェフ
ジャン・クロード・ヴリナ: パリの三ツ星、タイユヴァンのオーナー。
クリスチャン・ヴァネケ: パリの三ツ星ラ・トゥール・ダルジャンのシェフ・ソムリエ
ピエール・タリ: シャトー・ジスクールのオーナー。 ボルドー・グラン・クリュ協会事務局長
オーベール・ド・ヴィレーヌ: ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティの共同経営者
ミシェル・ドヴァズ: アカデミー・デュ・ヴァンのフランス語講座講師
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| 左から、パリ試飲会でのパトリシア・ギャラガー、スティーブン・スパリュア、オデット・カーン。 |
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この顔ぶれを見れば、当時若干34歳だったスティーヴン・スパリュアが、フランスのワイン業界の中に確固たる地位を築いていたことがわかります。ただし、この中でミシェル・ドヴァズだけは無名の人物で、「アカデミー・デュ・ヴァン講師」以外にはワイン関係の肩書きを持っていませんでした(とはいえドヴァズも、今ではフランスを代表するワイン評論家の一人になっています)。ほかの審査員の華麗な肩書きに少し気後れしたドヴァズは、いたずら心で「フランス醸造協会」という架空の団体をこしらえ、そこの会長を名乗りました。 審査員選びでは大成功したスパリュアですが、パブリシティ獲得のために報道関係者を招待するにあたっては、辛酸を舐めることになります。当初、『ゴー・ミヨ』誌に独占取材をもちかけたのですが断わられ、その後は手当たり次第に有力媒体に声をかけるも玉砕続き。「茶番にすらならないイベント」で、ニュース価値がないと判断されたのでした。困りはてたスパリュアとギャラガーが声をかけたのが、米国『タイム』誌のパリ特派員だった、ジョージ・テイバーです。テイバーは当時、ギャラガーの授業を受講していたアカデミー・デュ・ヴァンの生徒でしたから、なかば義理で取材にきてくれることになりました |

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そしてイベント開催日である5月24日がやってきます。パリのインターコンチネンタル・ホテルのパティオが会場に選ばれたのは、アカデミー・デュ・ヴァンの教室では少し手狭だと思われたからです。審査員たちが集まってくると、白ワイン、赤ワインの順で試飲がなされると発表されました。 招待された審査員たちは、当日まで「カリフォルニアワインを試飲してもらう」とだけ聞かされていました。フランスワインと対決形式で飲み比べをすることを、スパリュアはあえて伏せていたのです。白の試飲が始まる直前に、スパリュアは審査員たちにフランスワインの試飲もあることを告げます。スパリュアが懸念していたような波紋は起きず、審査員たちはあっさりと新事実を受け流しました。 ラベルのないボトルから白ワインがグラスに注がれると、審査員たちは20点法での採点を始めます。スパリュアも審査員とともに採点しましたが、集計には自分の点数を含めないことにしていました。審査員たちは、リラックスした様子で試飲しながら、ワインの出自についてあれこれ推測を始めます。 「これはまちがいなくカリフォルニアワインだ。香りがまったくないからな」と、審査員のひとりがあるワインを評しました。だがそれは、1973年産のブルゴーニュワイン、バタール・モンラッシェでした。「ああ、やっとフランスへ戻ったな」と、三ツ星レストラン グラン・ヴェフールのオーナーは嘆息をつきました。グラスの中身は、ナパ・ヴァレーのシャルドネでした。 白の試飲が終わり、集計がなされました。当初スパリュアは、白赤両方の試飲が終わってから、まとめて結果を発表するつもりでした。白の結果が、赤の試飲に影響することを避けたかったのです。しかし、赤の試飲の準備が、ホテル側の不手際でずいぶんともたついていました。会場を使用可能な時間が残り少なくなっていたこともあって、スパリュアはやむなく赤の試飲の前に、白の結果を発表します。1位になったのは、シャトー・モンテレーナというカリフォルニア産のシャルドネでした。会場に衝撃が走ります。
- Château Montelena Chardonnay 1973 (132) (カッコ内の数字は点数)
- Meurault-Charmes 1973 / Roulot (126.5)
- Chalone Vineyards Chardonnay 1974 (121)
- Spring Mountain Chardonnay 1973 (104)
- Beaune Clos des Mouches 1973 / Joseph Drouhin (101)
- Freemark Abbey Chardonnay 1972 (100)
- Batard-Montrachet 1973 / Ramonet-Prudhon (94)
- Puligny-Montrachet Les Pucelles 1972 / Leflaive (89)
- Veedercrest Chardonnay 1972 (88)
- David Bruce Chardonnay 1973 (42)
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オーク樽で熟成中のスダッグス・リープ・ワイン・セラーズ、カルベネ・ソーヴィニヨン1973年 |
スパリュアはこの時の白ワインについて、試飲した印象を次のように語っています。「シャローンが、カリフォルニアの中では一番になるだろうと予想していました。しかし当日の試飲では、モンテレーナが素晴らしいと感じたのを覚えています。他のカリフォルニアワインと比べれば、モンテレーナはカリフォルニアらしくないスタイルでしたが、しかしフランス風かというとそうでもありませんでした。ただ単に、優れた白ワインだったのです」 ともかく、無名のカリフォルニアのシャルドネが、トップ・ブルゴーニュに勝ってしまったのです。審査員たちはうろたえ、赤では同じことが起こらないようにしよう、赤の試飲では、フランスワインらしいものに高得点を与えようと決意したのでした(スパリュアの恐れていた通りです)。審査員たちは皆、カリフォルニア産の赤は、イタリアや南仏産ワインのようにアルコールが高く、濃厚なワインに違いないと仮定しました。そこで、快活でくっきりとしたカベルネの風味を持つワイン、つまり彼らの信じるフランスワインを探して高得点を付けようとしたのです。つまり、純粋な品質評価ではなく、明らかなホームタウン・ジャッジ、自国産ワインに対するひいきがなされたわけです。 しかし、ブラインド・テイスティングだったことが、皮肉な結末を招きました。審査員たちが高得点を与えた「フランスワイン」は、フタを明けてみるとフランス産ではなく、やはり無名のカリフォルニアワインだったのです。スタグス・リープ・ワイン・セラーズのカベルネ・ソーヴィニヨン。同ワイナリーの初ヴィンテージのワインで、原料ブドウは樹齢わずか3年の木についたはじめての房でした。
- Stag‘s Leap Wine Cellars Cabernet Sauvignon 1973 (127.5) (カッコ内の数字は点数)
- Château Mouton-Rothschild 1970 (126)
- Château Haut-Brion 1970 (125.5)
- Château Montrose 1970 (122)
- Ridge Cabernet Sauvignon Monte Bello 1971 (105.5)
- Château Leoville-Las-Cases 1971 (97)
- Mayacamas Cabernet Sauvignon 1971 (89.5)
- Clos Du Val Cabernet Sauvignon 1972 (87.5)
- vHeitz Cellars Cabernet Sauvignon Martha’s Vineyard 1970 (84.5)
- Freemark Abbey Cabernet Sauvignon 1969 (78)
審査員たちはあわてふためきました。フランスワインの守護神であるべき彼ら/彼女らが、アメリカワインを高く評価したなどということが明るみに出たら、売国奴として国中でつるし上げをくらいます。審査員のひとり、オデット・カーンなどは、自分の採点表を返すようにとスパリュアにくってかかりました。スパリュアはカーンの要求を拒否しましたが、スパリュアも内心ではまずいことになったと考えていました。彼が商売をしていたのはフランスで、品揃えの大半はフランスワインだったのですから。 |

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唯一の報道関係者としてその場に居合わせたジョージ・テイバーが、『パリスの審判』なる記事を米国『タイム』誌に発表すると、ニュースが世界中をかけめぐります。フランスでもアメリカでも多数の媒体が追加取材をし、カリフォルニアの勝利/フランスの敗北をセンセーショナルに書きたてました。アメリカでは、CBSテレビの夜のニュースでも報道されたほどです。 『タイム』誌が売店に並ぶと、スタッグス・リープ・ワイン・セラーズとシャトー・モンテレーナの電話は鳴りやまなくなり、ワインを求める客の車がワイナリーの外に列をなしました。スタッグス・リープでは、販売を車1台に付きボトル1本に限定したのですが、それでもすぐに売り切れてしまいました。小売店に並んでいた両ワイナリーのワインも、一瞬で姿を消します。2週間前にスタッグス・リープを買わないと言った小売店は、毎日のようにワイナリーに電話をかけてきて、2、3本でもいいから譲ってくれと懇願しました。シャトー・モンテレーナの創業オーナーのひとり、ジム・バレットは、パリ対決での勝利を広告費に換算すると、400万ドル分の価値があったと考えています。 とはいえパリ対決は、勝利者となったふたつのワイナリーを商業的成功に導いただけではありませんでした。このイベントをきっかけとして、世界中のワイン産業が新しい時代に入ったと言っていいほど、多くの意義を持つものだったのです。最も重要だったのは、当時世界中で信じられていた、「ワインは血統がすべて」という信仰を覆したことです。「偉大なワインを生むことができるのは、偉大なテロワールをもつ歴史あるワイナリーだけ」、つまりフランスのエリート生産者だけが、世界最高のワインを「独占」しているという状況に、パリ対決は風穴をあけたのでした。無名産地の新興ワイナリーであっても、汗と才覚をもって励めば、最高のフランスワインをしのぐことができる――大勝利を収めたふたつのワイナリーのオーナー醸造家も、この点を強調しています。 スタグス・リープのワレン・ウイニアルスキーは、次のように語りました。「フランスは、偉大なワインを生産可能な唯一の土地でない――この事実が明らかになったことが、何よりも大きい。パリ対決の結果は我々に自信を与え、新たな向上心を植え付けた。皆がそれまで以上に、畑やセラーで品質向上に取り組むようになったのだ。それ以前は漠然と良くなることを望んでいただけだったが、努力すれば結果が伴うことが証明されたのだから」 シャトー・モンテレーナのジム・バレットは、その影響がカリフォルニアに留まらなかったと指摘しています。「『アメリカに出来るなら、自分たちにも出来るはず』と、世界中の造り手が考えるようになった。オーストラリアやチリといった産地、ヨーロッパのイタリアや南仏といった産地……とにかく世界全体の技術水準が、パリ対決以後にあがっていったのだ」 フランスの生産者たちは予想外の結果にショックを受け、当初は自己憐憫的な負け惜しみを口にするばかりでした。しかしフランス人たちも、やがては時代が変わったことを悟ります。王座にあぐらをかいてはいられない、真摯に品質向上に取り組まねばならないというわけです。スパリュアはこの点について、次のように語っています。 「1976年当時、フランスの生産者たちは思い上がっていました。フランス産ワインであることが、自動的に最高品質を意味すると固く信じていました。しかし、技術的な面では、当時のフランスはカリフォルニアに劣る部分があったのです。私は赤のテイスティングに、ラフィットやマルゴーの1971年や1970年を含めませんでした。なぜなら、ラフィットやマルゴーでは、カリフォルニアに負けてしまいかねないと思ったからです」 フランスの生産者たちはパリ対決のあと、他国のワイン造りにも興味を示すようになりました。有名ワイナリーの子弟が、アメリカやオーストラリアに研修にいくようにもなり、人・情報・技術の交流が盛んになります。 「当時は、カリフォルニアがフランスに勝ったという結果ばかりが取り沙汰されましたが、重要なのは単純な勝ち負けではありません。フランスの生産者が、アメリカに初めて目を向けたことが大切なのです。そしてその次はオーストラリアといった具合に、『ワインの国際化』が進んでいきまいた。その最初のきっかけとなったのが、パリ対決なのです。そうして今日、新旧世界の交流によって、ワイン造りの黄金時代が訪れています」と、スパリュアは語りました。 そしてもうひとつ重要だったのが、ブラインドによる比較試飲の「破壊力」です。既存の名声や歴史といった伝統的価値観の一切を抽象し、グラスの中身の優劣だけを純粋に評価するという手法は、当時まったく新しいものでした。もしパリ対決が、オープン・テイスティングで行なわれていたならば、フランスが圧勝していたことは間違いありません。いずれにせよ、パリ対決以後、ブラインド・テイスティングによる競争的比較試飲は、「下克上」あるいは「ワインの民主化」を引き起こす革命的手段として、世界中に広まっていきました。 ブラインド・テイスティングは、「テロワール固有の味」というフランスワインの根幹概念も揺さぶっています。審査員たち、すなわちフランスで最も能力の高いワイン鑑定家であっても、フランスワインとカリフォルニアワインをブラインドでは区別できなかったのです。この点について、ワレン・ウイニアルスキーは、次のように述べています。 「偉大なワインには共通する性質があって、それは特定の場所で造られたワインだけに現れるものではない。その性質とは、3つのRで現わされるもので、すなわちRipeness(熟度)、Richness(リッチさ)、Restraint(抑制)である。こうした特質は世界共通、普遍のものであり、特定産地の特徴とされるものを超越している」 |

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パリ対決の劇的な結末に関して、誰もが勝者であるカリフォルニアの生産者をたたえたわけではありませんでした。愛国心に駆られたフランスのマスコミやワイン業界人たちは、さまざまな観点から結果に対して異議申し立てをします。ひとつは、先に触れたカリフォルニアワインの参加本数がフランスワインよりも多かったことで、この点ではたしかにカリフォルニアがもともと有利にはなっていました。 赤ワインの試飲については、得点差が小さかったことも盛んに議論されました。1位になったスタッグス・リープの得点は127.5点でしたが、シャトー・ムートンとは1.5点差、シャトー・オー=ブリオンとは2点差でしかなかったのです。また、スタッグス・リープを1位にしていたのが、9人いる審査員のうちでひとりだけだったのに対し、シャトー・オー=ブリオンを1位としていた審査員はふたりいました。スタグス・リープが1位になったのは、ある意味「たまたま」でしかなかったと、たしかに言えるかもしれません。 しかし、最大の異議申し立ては、フランスワインの「飲み頃」をめぐってのものでした――ブルゴーニュやボルドーの偉大な白ワイン、赤ワインは、長い年月の熟成を経てはじめてその真価を発揮する/パリ対決で試飲されたフランスの白赤は、いずれも生産されてから3?6年しか経っていない若いワインであり、まだ品質のピークに達していなかった/一方、カリフォルニアワインは若いうちが華だが、フランスワインのように熟成による品質向上をしない/10年後、20年後に同じワインを飲み比べたとしたら、カリフォルニアはフランスの敵ではないはずだ――このようにいうのです。 かくして、リターンマッチへの導火線に火がつきました。まずはパリ対決から10年後の1986年9月、最初の再対決が行なわれています。舞台はニューヨークの米国フランス料理協会で、オーガナイズはふたたびスティーヴン・スパリュア。審査員にはアメリカのワイン業界人8名が選ばれました。試飲は赤のみでしたが、10年前と同一のワインが用意され(ただし、フリーマーク・アビーは不参加)、熟成ののちに米仏の優劣が変わるかを確かめようという趣向です。結果は次の通りでした。
- Clos Du Val 1972
- Ridge Monte Bello 1971
- Château Montrose 1970
- Château Leoville-Las-Cases 1971
- Château Mouton-Rothschild 1970
- Stag‘s Leap Wine Cellars 1973
- Heitz Cellars Martha’s Vineyard 1970
- Mayacamas 1971Château
- Château Haut-Brion 1970
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| 2006年のリターンマッチの模様(ナパ会場) |
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またしてもカリフォルニアワインの勝利に終わりました。1位になったのは、10年前は8位だったクロ・デュ・ヴァルで、10年前1位だったスタッグス・リープは今回6位でした。カリフォルニア勢ではほかに、10年前に5位だったリッジが今回2位につけています。「熟成すればフランスワインが勝利する」という下馬評が見事に覆されたわけですが、このリターンマッチの結果は、さほど決定的なものとは考えられませんでした。アメリカで開催され、審査員も全員アメリカ人だったという点から、ホームタウン・ジャッジを疑われたようです。 それから20年、パリ対決から丸30年が経過した2006年5月24日に、またもやリターンマッチが開催されます。今回は、イギリスのロンドン、アメリカのナパの2地点同時開催で、それぞれの会場で別々の審査員が同じワインを審査するという形式でした。ロンドン会場の審査員を務めたのは、ジャンシス・ロビンソン、ヒュー・ジョンソン、マイケル・ブロードベント、ミシェル・ドヴァズ(1976年の審査員のひとり)、ミシェル・ベタンヌら、イギリス人およびフランス人の超大物ワイン評論家たち9名。全員がボルドーびいきといっても過言ではありません。一方、ナパ会場の審査員は、ダン・バーガー、アンソニー・ダイアス・ブルーなどアメリカ人のワイン評論家が中心でしたが、イギリス人ジャーナリストのスティーヴン・ブルック、1976年にも審査員を務めた元トゥール・ダルジャンのソムリエ、クリスチャン・ヴァネケもナパ会場で参加しています。オーガナイズは、ロンドン会場がスパリュア、ナパ会場はパトリシア・ギャラガーでした。 ボルドーの1970年や1971年は、まさに熟成のピークにあるはず。基本的にはボルドーびいきのスパリュアは、またもやフランス勢の勝利を予想し、「ボルドー赤の寿命の長さが明らかになるだろう」と公言していました。しかし、フタをあけてみると、みたびカリフォルニアワインに軍配があがり、しかも1位~5位を独占するという劇的な結果となりました。
- Ridge Monte Bello 1971 (137) (カッコ内は点数)
- Stag‘s Leap Wine Cellars 1973 (119)
- Heitz Cellars Martha’s Vineyard 1970 (112)
- Mayacamas 1971 (112)
- Clos Du Val 1972 (106)
- Château Mouton-Rothschild 1970 (105)
- Château Montrose 1970 (92)
- Château Haut-Brion 1970 (82)
- Château Leoville-Las-Cases 1971 (66)
- Freemark Abbey 1969 (59)
1位になったのは、1976年に5位、1986年には2位だったリッジのモンテベロ1971で、ロンドン/ナパの両会場で2位以下を大きく引き離しての勝利でした(スパリュアも、リッジに最高得点をつけています)。1976年に1位だったスタグス・リープは今回2位、1986年に1位だったクロ・デュ・ヴァルも5位に入りました。この結果を見れば、「カリフォルニアワインは熟成しない」という業界の「定説」が、根拠を欠いたものだと誰もが認めざるをえないでしょう。カリフォルニア産だろうとボルドー産だろうと、偉大なワインは偉大な熟成をするのです。 |
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こらからも、フランスワインとカリフォルニアワインの対決的比較試飲は、世界中で続けられるに違いありません。しかし、パリ対決自体のリターンマッチは、もはや行われることはないように思われます。使われたワインたちの寿命もそろそろ尽きるころですし、リッジ・ヴィンヤーズの最高醸造責任者 ポール・ドレーパーも、2006年の勝利直後に次のようにコメントしました。「今日の勝利をとても嬉しく思います。しかし、そろそろ(この対決も)終わりにしたほうがよいでしょう」。かくしてパリ対決という「伝説」は、一応の最終決着を迎えた格好になりました。 しかし、スティーヴン・スパリュアがワイン・テイスティングによって引き起こした「革命」――ワインのグローバリゼーション――は、ワインの世界を不可逆的に変えてしまいました。30年余り前からはじまったワイン界の大転回は、今も続いているばかりか、どんどんと加速度を増しているように見えます。20世紀のワイン史が将来書かれることになったとき、「パリ対決」はフランス革命のような歴史の転換点として、そこに記されるに違いありません。スパリュアの名も、聖像破壊者として後世に語り継がれていくでしょう。
<主要参考文献> 『パリスの審判』 ジョージ・テイバー著、 葉山考太郎訳、日経BP 『ワインの帝王 ロバート・パーカー』 エリン・マッコイ著、立花峰夫・立花洋太訳、白水社 『パリ対決からもうすぐ30年』立花峰夫(雑誌『ヴィノテーク』2005年8月号) Loftus, Simon. Anatomy of the Wine Trade. NY: Harper & Row, 1989. |
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